わにわにinterview「ウラカタ伝」 (わにわに伝)

ふだん表に出ないけど、面白そうなことをしているひとを呼びとめ、話を聞きました。

スタントマンについて知りたい。ⅲ

スタントマンから「アクション監督」となった、
大内貴仁さんに聞きました。【3/6】
 

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わにわにinterview アクション監督って、どんなことをするの

「行動力がない反動、
 
ひとりで香港にいくしかないわ」

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今回のインタビューで、大内さんに要望したことは「スタントマンの世界を教えてほしい」だった。
いつも携行しているというノートパソコンを使い、大内さんは次々と動画を映し出してくれる。コトバの説明よりも、たしかにわかりよい。「Ⅴコンテ」と呼ばれる大内さん自身が編集した動画の完成度は高く、短編作品のようだった。「こういうのを作るのが好きなんですね?」とたずねた。


大内 そうですね。でも、好きなだけでなく、海外で仕事をするとなると、こういう積極的に自分を売り込むプロモーションビデオがないとダメなんですよ。それで作るようになったんですが。

── アクションは独学だといわれていましたよね。
 
大内 ぼくがひとりで香港に行ったときは、ネットカフェでアクション映画の動画を見てワザを覚え、公園で練習していたんです。何の経験もない素人のまま「アクションやりたい」と香港に行ったので、特技を身につけないといけないと思ったんです。
 ただバク転とか宙返りをやったところで、誰も驚かせられない。だから、いまでいうところの「エクストリーム・マーシャルアーツ」やブレイクダンスの技を取り入れたアクションの練習を、公園の草むらでひたすらやってました。あと旅行者のひとを呼び止めて、立ち回りなんかも(笑)。

── 旅行者ですか(笑)。

大内 ええ。時間があったら手伝ってもらえませんかとお願いして。

大内さんがアクションの世界を目指したのは23歳を過ぎようしたときだった。年齢的にはスタートするには遅かった。それまでは大阪体育大学を卒業後、内定していた会社に就職せず、有名アクションクラブの試験を受けたこともあったという。

 

大内 なんか急に、アクション映画をつくる世界でやってみたいって思うようになったんです。当時憧れていた香港映画の世界で、スタントマンをやってみたいって。
 ひとに話すと「年齢的に遅い」と言われたんだけど、あきらめたくないと思ったんです。(まだ日本にいたとき)あるアクションクラブの試験に合格はしたんですが、結局そこには入らなかった。思ったよりも授業料が高かったのと、養成期間が二年もある。
 それで聞いたんです。「もし半年で上達したら、そのときは(撮影)現場に出られるんですか」と。

 二年間の養成期間を終えないと現場には出られないと言われたんで、自分の場合、年齢もあるし、そんなに待っていられないと思った。

── それで単身香港に?

大内 ぼくのことを「行動力がある」とか言うひともいるけど、そうじゃない。ないから23まで何もしてなかった。悶々としていて、いっきにバクハツしたんです(笑)。
 スタントにしても、それまでなんとなくやりたいと思いながら、ただ見ていただけ。これでは何も始まらないと気がついたんです。

── それで内定していたという就職は?

大内 していません。バイトしながら先を探すというのもできてなかったんです。だから、もうそれくらい行動力がないんです。

── いまの大内さんと当時の大内さんは、フンイキ的なものはちがうんですか?
 
大内 香港に行って変わったと思いますね。
 
性格的には、ケツが重い。いまもそれは変わってない。お尻に火がつかないことには動かないんです。だからダメ人間なんです(笑)。
 どれぐらいダメかというと当時、パスポートの取り方もわからない。英語もまったくしゃべられない。このままじゃ何も進まないから、「香港行きのチケットを取ったらさすがに火がつくやろう」と思って、二週間後のチケットをとったんです。

── では、何のツテもなく香港に?
 
大内 そうです。出身は大阪の堺市なんですが、それまで大阪を出たこともない。東京にも行ったことがない。それで「今度、生まれ変わったらジャッキー・チェンのようにアクションをつくってみたいな」と思う、思うだけで行動に移さない自分に腹が立ったったというのもあったかもしれないです(笑)。

── 「なんで生まれ変わらないとできへんのや!?」と(笑)。

大内 そうです(笑)。そのときのモチベーションは、「無理でも一回やってみよう」。やるだけやったけど、でも無理やった。ひとに最低それぐらいは言えるように、と奮い立たせたんです。

── ちょっとわかります、そのかんじ。

大内 わかってもらえます(笑)。
 それで行くと決めてからもネガティブ思考は変わらずで、「何がなんでも成功してやるぞ」じゃないんです。「とりあえず行こう!」で。だから実家にいたら、これはまわりに甘えるだろうし。まったく別の場所で、ゼロからチャレンジすることに意味があったんです。
 だから、ひとりでチケット買い、住むところを見つけるのも、ぜんぶ自分でやらないといけない。そういうふうに自分を追いつめて、『地球の歩き方』を持って、本に載っていたイチバン安い宿、日本語の通じるところを目指して行ったんですよ。


案の定というか、香港の空港に着いた直後、大内さんはバスの乗り方がわからず、パニックに陥ったという。1999年の夏である。

 

大内 どうしたらいいか、わからなくて。空港のベンチに座って、「どうしょう、両替するにもコトバしゃべられへんし……」て。あの時は身も心も縮こまって、両替ひとつできない。もうタイヘンでした(笑)。
 ベンチで一時間半くらい、しゃべる練習をして、ようやくの思いで両替して。行き先の「何番」と書いてあるバスに乗ったら、乗務員から「××▲▲……」て、よくわからない言葉でまくしたてられ、何がなにかわからないままバスから下ろされて。しばらくはその場でフリーズしてました(笑)。
 別の場所で、先にチケットを買って乗車しないといけなかっただけなんですが、それを知らなくて。乗りなおしたあとも、これがまただいぶ前のところでバスを降りてしまい、ひたすら知らない街をもう泣きそうになりながら宿まで歩いたのを覚えています。

── 大変でしたね。でも、目指す宿はスタート地点ですよね。
 
大内 そうなんです、宿に着いたところでまだ何も始まってない(笑)。
 その宿もね、ドミトリー式の二段ベッドで一室に何人も泊まる、バックバッカーが多いところ。性格上、ぼくはそういうところに泊まるなんてできない人間だったんですよ。知らない相手と一緒の部屋なんて。だけど、自分の性格がどうとか言っていられる場合でもなく「郷にいったら郷に従え」でしたね(笑)。

 

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♯ 体育館を借りての屋内練習。



大内さんにとっての幸運は、その安宿が、映画のエキストラを求めて電話がかかってくるような場所だったことだ。

大内 香港の映画は、日本人の役があるからといって、わざわざ日本から呼んでくるということはしないんです。どうするかというと、旅行者をつかまえてくるんです。
 その宿に電話がかかってくるというのは聞いていたので、それを待つというか、毎日することもないので、ことばの勉強をしていたんです。
 あとになって思ったのは、英語を学校で教える前に、「こういうときのために英語を勉強したほうが便利なんだ」となぜ教えないのか。こういうときに必要になるという場面がわかっていたら、ぼくも英語の覚え方もちがったと思うんです。

 まあ、それはともかく、言葉をしゃべれんとどうにもならない。英語か広東語か、どっちにしようか。ふつうは英語を選ぶんでしょうけど、「ここで広東語をしゃべるやつは、いないだろう」と思って、広東語にしたんです。

── 広東語のほうが難しそうなのに。どうやって覚えたんですか?

大内 最初は本とCDです。イヤホンで繰り返し聴いて覚えたら、すぐに真似て買い物をする。顔見知りができたら、広東語で「どこいくの?」と聞く。「△△」と場所が返ってくるでしょう。「いついくの?」で、時間が帰ってくる。質問はもう棒読みです。一方的な質問を用意しておくんですが、続けているとしゃべれるようになります。

── 空港で途方に暮れていたことからすると、すごい進歩ですよね。
 
大内 そうですね。必死でしたから。
 次のステップは、「ぼくはスタントマンになるために日本から来ました」と言えるようにする。会話になったら質問に答えられよう、想定問答集のようなものをノートに書きだして。そのノート、滞在中に20冊くらいになりましたよ。

── へえー20冊も(笑)。

大内
 もっとかな(笑)。
予想外のことばが返ってきて、わからないときはノートに書いてもらって、宿に帰ってから調べるんです。そういうことをしていると、カフェの店員さんとかが面白がってくれる。「これは何ていうの?」と灰皿を指差さすと、ことばが増えていくんですよ。

── ワタシの知り合いでアメリカに留学したけど話せず、二年間アパートに閉じこもっていたという話を聞いたことがありましたが、大内さんは積極的に外に出ていったんですね。
 
大内 ぼくも、宿から出たくないと思うこともありましたよ。もちろん。でも、選んだのが広東語でよかったのは、店で注文したりするときに英語だとコッ恥ずかしいのが、日本人が広東語をしゃべられなくてもふつうでしょう。だから、しゃべれたときの驚きは大きいんですよ、面白がってくれますしね。
 現地のひとにとって、日本人の旅行者が香港で英語をしゃべるのはふつうなんです。わかります? 広東語を話すことに意味があったんですよ。あのとき選んだのが、もし英語だったらその後の事情もちがっていたかもしれません。

── 広東語が力になっていた?

大内 そうですね。でも当時は、そこまでは考えていなくて、ひとがやっていないほうを選んだほうがいいだろうと思っただけです。ただ、まったく知らない言葉を覚えることも楽しかったですし、撮影現場では広東語でやりとりできるほうがいいかなと。

── すこしでも、ひとと話せると楽しくなりますよね。
 
大内 そうですね。洗濯屋に行って「いくらですか?」としゃべれるようになるだけでちがいますよね。だけど、日常会話だけで、細かい話をされたらダメでした。

── それにしても空港に着いたときの話からすると、よく早々に逃げ帰ったりしなかったんですね。
 
大内 当時、ぼくと同じようにジャッキー・チェンに憧れて香港にやっては来たけど、すぐに帰ってしまうひともたくさんいたみたいです。
 ちがいは何かと言われたら、ぼくは日本でのアクションの経験がまったくなかった。それが逆によかったんじゃないですかね。

── ないのがよかった?

大内 日本である程度アクションの経験があるひとたちは、ここですぐに通用するかしないかってことじゃないですか。ぼくはキャリアがないぶん「通用しなくて当たり前」ってところからのスタートでしたから(笑)。


── もうひとつ。大内さんにとっては、帰りたくてもすぐに逃げ帰る口実さえないのがよかった?

大内 かもしれませんね。日本に帰れば、彼らには場所があるけど、ぼくは何の経験もないから、帰ると自分を受け容れてもらえる環境はゼロ。大阪で何かしていたわけでもない。これは香港で闘っていくときに大きかったと思います。あとは負けん気です。

── 負けん気。いいですね。

大内 もうおわかりやと思うんですが、ちいさな負けん気です。小さいんです(笑)。
 宿に集まるひとのなかには、旅行者だけでなく「香港で何かやってやろう」という意気込みをもったひともいて、そういうひとたちからは「何の経験もなく無謀だ、甘い」と意見されました。正論だと思うんですが、でも若かったですから、言われると反発するわけですよ。

── 「なにくそ!!」とエネルギーにはなったんですよね。
 
大内 大阪を出るときに「素人が香港行って何ができるねん。ソッコーで帰ってくるわ」と言われたのもよかったかもしれませんね(笑)。


大内さんは二人きょうだいの長男。下に二歳ちがいの妹がいる。無謀に思える香港渡航だが、このあと聞いた話では、どうも小学生時代の伏線があったようだ。

 

取材・文責=朝山実
撮影=山本倫

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☟つづく


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