「ウラカタ伝」

ふだん表に出ないけど、面白そうなことをしているひとを呼びとめ、話を聞きました。

「ボランティアなんて、と思っていたのにね」

福島を忘れないスクールを遠く島根で続ける
シンガーソングライター・浜田真理子さんに聞きました。【1/6】 

 

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わにわにinterview③島根と福島のハナシ 

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唄が本業の真理子さんが、
「日直」を始めたわけ(前篇)
インタビュー・文=朝山実
撮影©山本倫

 


 浜田真理子さんは、島根県松江市に暮らしている。東京に出てみたい。そう思ったことは何度かあったし、チャンスもあったが、相変わらずいまも松江に暮らし、ライブであらちらこちらに出かけ音楽活動を続けている。
 2004年にTBS「情熱大陸」でとりあげられたのをはじめ、彼女の唄は数々の映画(たとえば『カナリア』サントラ盤の「銀色の道」など)やCM、テレビドラマの挿入歌に使われてきた。CDも『夜も昼も』(大友良英プロデュース)など数多い。
 いわば、知る人ぞ知る存在だ(そういえば「GLOW」2016年1月号の「小泉放談」で、小泉今日子さんと「ここからどう生きる?」「俺たちに明日はないのか?」と同世代対談掲載)。

 そんな彼女が松江で「スクールMARIKO」をはじめて3年になる。福島のこととか、原発のこととかを考えるという趣旨で、交流のあった大友さんのコンサートからスタート、年に数回の講習会を重ねた。規模は小さいものの着実に参加者を増やしている。
 本業では昨年秋に12年間所属した事務所から独立、フリーランスとなった。電車の乗り継ぎを調べるのに便利と「ガラケーからスマホにかえた」。けっこう器用につかいこなしている。そんな彼女に、スクール運営のウラカタを始めることになった経緯を聞いた。
 インタビューしたのは、2015年9月。場所は島根県松江市宍道湖のほとりにある美術館のカフェ。10年ほど前に「AERA」誌の「現代の肖像」取材の締めくくりのインタビューを行ったのと同じ場所だ。

 

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浜田真理子(以下同)
 前回インタビューを受けたあと、わたしも40代になったことだし、社会にお返ししないといけないなぁと思って、「国境なき医師団」のCMの音楽をやったり、病院でコンサートをやったり、学校で歌ったりしていたんですよ。
 

── それは、ボランティアみたいなこと?

 自分の音楽活動とは違ったフィールドで音楽をすることです。それまで、ボランティアなんてと思っていたんだけどね。そうこうしているときに、東北の震災があったでしょう。阪神淡路の震災のときには、何もできなかったので、何か自分にできないかなと思っていた。とはいっても、松江でしょう。自分に何ができるんだろうかって。
 有名な歌手が行って唄うとか、お笑いのひとが行ったりするのはわかるけど、わたしの歌は悲しみの歌だったり、鎮魂の歌だったりするから、被災地で歌ったりするのは逆効果になるんじゃないか、とか考えたりしながら、しばらく何もできないでいたんです。 

 だからといって彼女が何もしなかったわけでもなかった。震災から1年後、仙台でのコンサートに参加したことがあった。そして、へこんでしまった。
 後日、ひとり観客から、「あなたの歌は不愉快だ」と手紙をもらったのだという。コンサートのメインは誰もが知るビッグスターで、彼女の出番は前座だった。


 たった一通なんですけどね。知らないひとに、わざわざ手紙を書いて出すなんてよっぽどのことだから。

── 手紙はプロモーターさん経由で?

 ファンレターだと思って開封せずに転送してくれたんですよね。あとになって考えたら、選曲に問題があったのかもしれない。呼んでいただいたひとからは「しゃれこうべと大砲」を唄ってほしいと言われ、以前にNHK白州次郎のドラマをやったときのエンディングの挿入歌で「ハレルヤ」とメドレーで唄ったんです。
 わたしは森繁久弥さんが唄っておられたCDを聴いて、鎮魂の歌だと思っているんだけど、でもなぁと最初は断ったんです。「海」というか言葉を聴いただけでも拒否反応を起すひともいるかもしれないと思ったから。
 全体の意味として、これは反戦の歌だとか鎮魂の歌だとかいっても、ひとがそういうふうに受け止めるには気持ちの余裕が必要だし、言葉だけに反応されると嫌だなぁというのがあってね。


 結果として恐れていたことが起きたということになる。否定的な意見を寄せたのは、わずか一人だが、「ひとり」の意味は大きいという。


 便箋で手紙を書くというのだから、よほどのことだったと思うんです。もう、わたしは仙台まで行って何しているんだろうと思った。
 仙台には震災以前に自分のライブで唄いに行ったことはあるんだけど、それはわたしのライブだから。知らないひとに聴いていただくには、わたしの歌はダメなんだなぁ。ガーン!って。へこみましたねぇ。
 でも、その件については、誰も悪気はないんですよ。プロモーターも、よかれと思って声をかけてくれたんだし、手紙を書いたひとにも悪意は感じられなかったから。「わたしは津波で知り合いを失って……」と切々と書かれた手紙だった。そういう状態のところで、あんな歌を唄うなんて……。文面を見ると、わたしと同世代ぐらいかなぁと思いましたが、きちんとした文章でね。ただ攻撃するようなひとだと、そんなにへこみはしなかったかもしれないけれど。冷静な手紙だったから。
 

 以来、唄うこと以外にわたしに何ができるのだろうかと考えたという。


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☝会場の受付の前に立っている浜田さん。ふだんのライブのときにはしないです。

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☝9月26日(土曜)の2015年度第5回のゲスト講師は、詩人で福島の高校教師・和合亮一さん
 ボードに「日直・浜田」。カラコロ工房にて。(撮影=朝山実)


── 東日本大震災が2011年。「スクールMARIKO」を立ち上げられたのは2013年でしたよね。

 
 いずれボランティアの熱もひいていくだろうから、そのときは織田信長の鉄砲隊じゃないけど、わたしの出番じゃないかなって。ひとを助けることって、気持ちだけじゃ続けていけないことだから。自分の生活もあるしね。
 震災前から東北には唄いにいったりしていて、知り合いもできていたから何かしたいと思う。といって財力はないし、家は遠いし。しかも、自分の武器は音楽なのに、それも使えない。どうしょうと考えていた。
 それで島根県は、昔から平和教育に力を入れていて、「戦争はいけない」というのを学校の授業で教わったりするんですよ。わたしが反戦歌を唄ったりするのも、そういう意味で自然なことで。学級文庫に『はだしのゲン』とかあったからね。
 それで、わたしにやれることといったら、起きたことを忘れないでいることだなと思った。他人事じゃなくて。そっちのことだったら何かできるんじゃないかって。幸い、ミュージシャンの人脈もあるし。わたしが橋渡し役になって、福島と島根を結びつけられたらと思った。そうでもないと、福島県出身で、島根に住んでいるひとは多くないから。うちの母なんかも、「島根に住んでいる東北のひとに会ったことはない」っていうくらい距離があるんですよ。

── たしかに、東京から松江に行こうとすると、出雲か米子空港を使うのが最短ですが、松江から東北に行くには一回、羽田を経由しないといけない。

 よく「陸の孤島」といわれる(笑)。時間と距離は大きいからね。鹿児島の原発が動いたというのは、そういう意味では距離のことがあったからじゃないかと思うんですよ。福島から、遠い。アメリカが、とか。チェルノブイリがね、と話すくらい。知り合いの顔が浮かばないくらい距離感がある。

── 顔が浮かぶかどうかは大きいかもしれないですね。

 でも、もうわたしたちは知っちゃったから。原発事故のことも、福島のことも、知らないフリはできないなぁって。そう考えていくと、音楽家って、遠くにあることを伝えるのに向いているんですよ。中世の吟遊詩人みたいに、町から町へと渡り歩き、あそこの町では流行り病がとか、王様はどうだとか、行った土地、土地で見たことを伝えていく。そういう役割ならやれるんじゃないかって。

── 吟遊詩人ですか。


 そう。でもこれ、大友さんがいっていた受け売りなんだけどね(笑)。

── さっきの話にもどりますが、浜田さんは、一人が感じたことを大切されるんですね。


 それはね、一人の意見に左右されるというんじゃなくて。一人でも、悲しませたくない。わたしは、目の前にいるこのひとが泣くんだったらやめよう、と思う。百人が喜んでいても、悲しむひとが一人いるなら、このひとも喜ぶ方法を探そうと思うタイプなんです。それに同情じゃなく、他人事じゃないぞ、これはと思うことでないと続かないとも思ったのね。それで、うちのすぐ近くにも原発があるぞ、それも県庁や市役所から10キロ圏内なのって。

── 10キロってすごく近くにあるんですね。

 
 そう。市内にリッパな建物がいっぱい建っているのも、原発交付金があったからなんだけど、そう思って見直すと、県の名前がついた原発は福島と島根だけなのね、全国で。
 もしも事故が起きたら、島根県はぜんぶ潰れてしまうかもしれない。しかも、島根の電力は火力発電で間に合っていて、原発の電力は広島に送っている。福島の原発が東京に電力を送っていた縮図に似ていなくもないんだけど、広島に原発がないのは原爆のことがあるからなんでしょうね。

── そういう知識は、どのようにして得ていったんですか?

 
 まず中国電力のホームページを見たりとかすることから始めたのね。雇用もすごいんですよ。何千人と働いている。だからスクールを始めようというときに、心配していろいろ言われた。「人気商売なんだから気をつけなきゃいけないよ」って。

── そういうのはあるでしょうね。

 
 それで、ガチの原発ハンタイ!というのではなくて、「ウチらがやろうとしているのは勉強会なんですよ。賛成のひとも反対のひとも両方来てください」と言ってはじめたの。でも、スクールの最初の日、最前列に作業服姿のひとが座っていてね。「コイツ、へんなこと言いやがったら承知しないぞ」みたいな態度なのね。もちろん、承知しないぞとは言わなかったけど。

── 威圧感があったということですね。


 そうそう(笑)。その日は、放射線が専門の学者さんで木村真三さんという方をお呼びしていたんですが、そのひとたちがすごい質問攻めをするんですよ。素人には何を言っているのかわからない応酬で。会が終わって前列にいたひとから、ちょっと話を聞かせてくれって。
 原発の作業員を技術指導する立場のひとだったんだけど。「あなたはどういうつもりで、こういう会をしているんですか」と聞かれ、「何が起きているのかわからないと、いいとも悪いとも言えないから、いろいろ勉強したいと思ってはじめたんです」と説明したんです。それ、ウソじゃないから。
 だって、県庁から10キロの場所に原発があるにも関わらず、まったく考えもしてこなかったのに、世の中の流れが反対に傾いてきたからって「たしたち原発に反対です!」と手のひら返すのも白々しいし、「まずは自分たちで勉強してみたいんです」って。

── 穏当で妥当というか、「手のひら返して」というのに言葉に実感がありますね。

 
 ハハハ。わたしはすぐにワアーッと行動を起こせない、決められないタイプなんですよね。だから、知りたいと思った。何も知らずに40年いたことで、いろんな利便も授かってきたわけだし。「夢のエネルギー」というので、誘致してきてもらったものだから。わたしなんかの立場だと、コンサートをするにはハコモノがないとできないし、共犯といえば共犯だよねって。調べていくほどに、モヤッとしていたことがわかってくるし。

── そのモヤッというのは?

 
 原発のある町内は、そういえばリッチだったなぁって。まだ二十歳くらいのとき、あそこの若者は土曜の夜になるといいクルマで市内を徘徊するのを目にしてきたし、原子力館に子供たちが遠足で行ったりしていたから。そういうのが、ようやくつながっていったのね。

── 見えていた景色がちがってくる?

 うーん、反対運動は原発がないからやれるんだなぁというの。一直線に「ハンタイ!」と盛り上がることができるのは、無いから言えるんだと思う。すでにあるところで、反対するというのはすごくタイヘンなんですよ。
 

── 原発があって町が成り立つという構図はあるでしょうね。


 スクールを始める際に集まってくれたスタッフにも、お父さんが原発で働いているというひとがいたりして。この辺で、中国電力に就職したといったら「いいところに入られましたねぇ。おめでとうございます」といわれる会社だから。それを「あの企業は」と鬼の首をとったかのように批判するのは、どうかと思うし。お父さんが原発で働いているひとは、言われなくとも葛藤はあるわけだし。スクールをやるんだったら、そういうひとも参加していける場でありたいと思った。

── 設営とか片付けをみていると楽しそうにやっておられたけど、スタッフは、どうやって集まってきたひとたちなんですか?

 わたしのライブがきっかけのひとたちが多いけど。わたし、松江の町づくりのNPOに5年くらい前から入っていたんです。若いときは、NPOもボランティアも大嫌いだったんだけどね(笑)。

── 大嫌いが、いまはその陣頭にたっているのがおかしいですよね。

 
 まあ、大人になったというか(笑)。きっかけは、そのNPOが主催するコンサートに呼ばれていって話を聞いたりしているうちに、面白いひとたちだなぁと。異業種のひとたちが大人の部活みたいにして、今度こういうイベントをやったらどうだろうかと話をしている。
 たとえば、松江は雨が多くて、観光地としてマイナス印象だけど、それを活かす手はないだろうか。「松江の雨は、ご縁を運ぶ雨です」というふうにいってイベントをしたらどうかとレンタル傘をディスプレイして、「縁雫(えにしずく)」というキャンペーンをやった。そのときのコンサートに、わたしが「水の都に雨が降る」という松江の歌を唄っているので呼ばれたのが最初なんですよ。

── 呼ばれて唄うところまでは、よくあることですよね。

 
 だったんだけど、ふだん市役所に勤めているひとと話すなんてことはないことなので、話が新鮮で面白かったんですよ。いつものライブに来るお客さんと私という関係とも違っていて。何度も言うけど、もう若い頃は「街づくりについてみんなで話そう」なんて、ケッ、ダサイと思っていたからね(笑)。
 あと、わたしたちの仕事って、ひとのお世話にならないと出来ないから。プロモーターがいないと出来ないし、お客さんを集めてもらわないといけないし。若い頃はそれこそ「わたしの音楽性は」なんて格好つけてやっていたけど、そういうの、ひとに言わなくても、家で考えていたらいいやって。
 家族にも、たいして稼ぎもないのに応援してもらっていたし。娘も嫁にいって、子育ても終わったしなぁというのもあって、ポッカリと心に穴があいた感じもあったんですよね。

── 子育て終了で、学びなおしですか?

 
 ライブで、いろんな外の世界に出かけていくようになって「松江って案外いいところだなぁ」と気がついたのもあった。そのタイミングでNPOにも入ったのが、2009年だったかな。

☟つづく


【スタントマンの大内貴仁さん、弘前のりんご飴マンさんに続く、今回の浜田真理子さん。
三人のどこにつながりがあるの? ジブンでも不思議です(笑)。何かになりたい、何かが足りないとつぶやく友のことを思い浮かべて唄った「あなたへ」という歌が好きで、よく聞き返しています。byわにわに

 

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☝会場案内の幟。一見大量生産に見えるが切り張り手作り。
 矢印の言葉が一枚ずつ違っていた1/3本。

 

 🎶 こんな歌を唄われています


黒の舟唄-浜田真理子