わにわにinterview「ウラカタ伝」 (わにわに伝)

ふだん表に出ないけど、面白そうなことをしているひとを呼びとめ、話を聞きました。

「自分史」づくりは、「300面相」の舞台と似ているかも?

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【わにわにinterview ウラカタ伝⑤】

「自分史」の世界は意外と奥深いという、
編集者・中村智志(「朝日自分史」編集長)さんに話を聞きました
【3/3】

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インタビュー・文=朝山実
写真撮影 © 山本倫 

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 そういえば、何冊か見せてもらった「自分史」の完成本の中に、女子高の生徒たちと担任教師との往復書簡のような「クラス日誌」があった。

 妻が夫の遺品を整理していたときに出てきたノートを本として復刻したもので、ノートじたいは何十年も前のものだが、青春のひと時が伝わってくるものだった。本は、かつての教え子たちに配られたそうだが、なくなった夫がかえってくることはないにしても、これを機につながりもできたりしたそうだ。

 本の数だけ異なりはするのだろうが、自分史を誰にいちばんに読んでもらいたいのだろうか。

 話はすこしだけ逸れるが、是枝裕和監督の映画に『ワンダフルライフ』という作品がある。なくなったひとが、向こうの世界に行く前に、木造校舎の学校のような場所に滞在し、「ひとつだけ、もっていくことができる記憶」の風景を選んで再現してもらえる。最終日には、それぞれの大切な思い出の上映会が催されるというスジダテだ。その選択までに一週間だったかな、各人には猶予が与えられる。

 迷いながら、たったひとつを選んでいく。その選び方に、個々のひととなりがよく表れていた。ARATA寺島進らの役者に混じって素人のひとたちも出演していて、ドキュメンタリーっぽさのある不思議な映画だった。映画を撮るために、たくさんの聴き取りを行ったそうだ。

 なかには期限の日になっても選べなかったひともいて、そのひとたちは…という展開もある。たぶん、ワタシなら結局は選びきれずに、居残り組にまじるんじゃないかな。

 視点を置き換えてみると、自分史の本づくりは、意外というか、案外というか、自分のためにではなく、誰かのために関わりはじめると、楽しい作業なのかもしれない。
「いろいろあって、やってみるとけっこう大変です」と苦笑しながらも、休日もお客さんのもとに足を運んだりしている中村さんの近況を聞いて、浮かんだのが『ワンダフルライフ』の谷啓さんだ。温厚で感情を表にすることもない所長さん役を演じていた。見た目が似ているというのではなく、まわりのスタッフたちもそうだが、大切な思い出を聞き出そうとする、あの場所にやって来たひとたち、一人ひとりに寄り添おうとするかんじがね。

 そんなこんなで、中村さんの話は今回が最終回です。

 

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「落ちたら、南米を半年、放浪しようかと思っていたんだよね」

 中村智志さんは、軽い口調でいう。
 就職活動の際の第一志望は朝日新聞社で、志望どおりの順調なスタートした。結果、南米に行きたいと思った夢はそのままになっている。それにしても「南米」も「放浪」も、眼前の彼からはイメージできない。ゲバラに憧れた、というのでもないらしい。

「流行りということでいうと、第三世界ならインドとかタイとかに行くのが当時は多かったですよね」

  中村さんが朝日新聞社に入社したのは、1987年。国鉄がJRになった年ですよ」
 出版局の配属となり、一ヶ月間の出版校閲部を経て、最初の所属先は「アサヒグラフ」だった。報道写真というジャンルがわずかながらも力をもっていた時代である。

「当時、朝日新聞社が出していた週刊誌は『週刊朝日』と『朝日ジャーナル』と『アサヒグラフ』の三誌で、僕はジャーナルを希望していたんだけど」

朝日ジャーナル」は、84年から筑紫哲也が編集長を務めるなどして若い人たちにも支持された、尖った雑誌だった。さらに遡れば、60年代末から70年の学園闘争の時代には、「右手に『少年マガジン(『平凡パンチ』など人によって異なる)、左手に『ジャーナル』」と標榜されもした。

 ワタシが会ったのは、彼が「ASAHIパソコン」編集部にいた98年頃で、中村さんの記憶によると、

「アサヤマさんが『週刊朝日』で書評の仕事をしていて、ぼくが何か仕事を依頼しようと思ったら、断られたんだよね。『そういう仕事はしません』って」

 そんな、せっかくの仕事を断るなんて、もったいない。ワタシは記憶にない。

「だから、気難しい人なのかと思った。もう詳しくは覚えていないんだけど、ネット小説がらみのテーマだったと思う。関心がないからって」

 ……まったく思い出せない。

「それから何年かして僕が『週刊(朝日)』に配属され(2001年4月)、アサヤマさんと仕事をするようになったのは半年くらいして、書評の担当になってからですよね。前任者から引き継ぎのときに、『ぜんぶ、おまえの好きなようにやっていいから』と言われたんだけど(笑)」

週刊朝日」に配属されるのは、当時は発行元が新聞社だったこともあり、新聞記者を経験してきた人たちで、傾向としては自分で取材をして書きたい志向の人が多く、他社の雑誌編集者と比べると、明瞭にタイプが違っている。書評担当にしても、どちらかというとなり手がすくなく、だからジャーナリズムとは距離のある書評欄を進んで志願するというだけでも「変わりもの」というのが長年の印象で、中村さんもその一人だった。

 

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「えっ、どうして書評をやりたいと思ったのか?  ……そうだなぁ、覚えていないなぁ」

 ところでインタビューしている場所は、東京・府中の東京競馬場。休日の昼食時とあって、周りには小さな子供を遊ばせている親子の姿が多い。そういうベンチが並ぶ一角で、気分だけでもこの日の馬券の的中を確信してステーキ弁当を買って食べながら。そういえば中村さんも、やはり予想が載ったスポーツ紙を手にしていた。
 競馬場にしたのは、中村さんの熱中している趣味の答によるもので、場所が変われば意外な一面を知ることができるかもしれない、と思ったりもした。

「学生時代、最初は、外交官に憬れたんです。でも、大学2年のときに地元の書店で問題集を立読みして、その場で、これは無理だとあきらめた」

── どうして?

「問題が
難しかったから」

 入社試験のハードルでいうと朝日新聞社も相当難しかったんじゃないのかなあ、と思ったが、へぇーそうなの、とうなずき返した。

「将来的には、フリーの、腕一本で生きていく書き手になりたいと思っていたけど、作家は無理だと自覚していた。そんなに深く考えず、とりあえずは文章を書く練習をするのに新聞社がいいだろうと思って、朝日を受けたんだよね。
 志望の動機? いまでもよく覚えているのは、いわゆる陽のあたらない人たちを社会問題として切り取るのではなくて、ありのままの姿を描きたいというのがあった。結果的に、いま、そういうことをやっているんだけどね」

 高校から大学にかけて、本多勝一などの社会派とされるルポルタージューを読んだりしていたが、「だんだん、ちがうんじゃないか」と思い始めていたという。違和感について聞くと、

「あらかじめ構図があって、そこに取材対象を当てはめて描くことへの疑問というのかなぁ。社会問題を扱った本では、社会的な弱者やマイノリティーの人たちのことは常に正しい、とされがちで、だけど、そうじゃなくて、もっとありのままに彼らの豊かな内側を描きたいと思うようになっていた」

── そう思うきっかけのようなことがあったの?

「大学2年の冬に、山谷に行ったんですよ。大学で英語を教えていたシスターから、山谷の教会でボランティアを募集していると教えられて。
 教会の神父さんが、極寒期に路上で野宿している人たちを泊めるということをしていて、朝になったら仕事を探しにいく人たちは出ていく。

 山谷は、いまは生活保護の街になっているけれど、日雇い労働者や手配師が一杯いた時代で。友達と二人で行ったんだけど、ぼくらに与えられた仕事というのは、ホームレスの人たちがいる大広間のような畳の部屋を、ガラス窓一枚挟んだ小部屋から見ていること。トラブルがないか、監視しているわけですよ。
 ぼくらのいる、こちら側にはおやつもあって、向こう側には何もない。

 それで朝になったら、ミカンを一個、おじさんたちに渡すんだけど、それが、こんなミカンがあるのかというくらい、しなびているわけ。
 よく覚えているのは、トイレに行ったら小便器の足元のところ大きな大便が落ちていたんだよね。それを神父さんが、しゃがんで取っていた」

 しなびたミカンに、小便器にこびりついたウンコ。かなりインパクトのある光景だ。

「つまり、彼らは一晩、場所を与えられはしているものの、そこは宿といえるようなものではなかった。
 違和感というなら、その教会のことが後に朝日新聞に紹介されていたんだけど、新聞に載った写真ですよ。路上にいたおじさんたちの傍で、神父さんが見守っている。だけど、ぼくたちがいたときにはそんな様子は一度も目にしなかった」

── というと?


「たまたまかもしれないけれど、神父さんにはそんなふうなことをしている余裕はないように見えた。編集委員が書いた記事でしたが、正直、あれはびっくりした」

 目にした記事には、記者がスジダテした物語にあわせた演出があったということか。あるいは「絵作り」をしたのか。「ありのまま」に中村さんがこだわるのは、そういうことへの疑問が理由らしい。しかし、偽善っぽい場面に立腹し、まったくちがう進路を選んだというなら、むしろわかりよいのだが、どうしてまたその記事を載せた新聞社に入ったのか。

「漠然とね。社会部の記者とかをカッコイイとおもっていたからね(笑)」

── ゆるいなぁ(笑)。

「ああ、もう少し説明すると、父がTBSにいた関係で、家で毎日新聞も取っていたんです。当時、毎日の夕刊で、編集委員が連載小説のような長期連載のルポを書いていた。こういう仕事をしたいな、と思って。
 朝日に入って新聞記者は2年間しかやってないけれど、結果的に、やりたいと思っていたことをやってきたともいえるよね」


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 ワタシが中村さんを尊敬するのは、一直線に熱くなったりしないかわりに、冷え切ったりもしないところだ。
 新宿のホームレスを取材した最初の著書(『段ボールハウスで見る夢』草思社)同様、山谷のホスピスに長期にわたって通いつめて本(『大いなる看取り』新潮社)を出した後も、取材対象者との関係は途切れることなく続いている。
 秋田で自殺を食い止める相談所をしている佐藤久男さんとは、本(『あなたを自殺させない』新潮社)が出た1年半後の今年3月にも、被災地支援の活動に同行している。どこかに文章を発表するあてがあるわけでもないのに。そういう継続性には感心する。ワタシはというと、一年間取材で何度も会った人でも、記事にし終わればプツンと関係が切れてしまうのが常で、だから続けていることじたいをエライなぁと思うのだ。


── インタビューの最後に、3つ質問していいですか?

「はい、どうぞ」

── いちばん古い記憶はなんですか?

「……そうだなぁ。笑える記憶としては、幼稚園のとき、『ママと遊ぼう! ピンポンパン』というテレビ番組があって、朝、テレビをつけたら知っている顔が出ていた。通っていた幼稚園の子らで、テレビを見ながら、『なぜボクは出ていないんだろう』と思ったことかなぁ。
 あと、同じ幼稚園のときだけど、粘土を使って、『どこから見ても三角の形のものを作ってください』というのがあって。出来た人から遊びにいっていい、と言われたんだけど、最後まで出来なくて。そうしたら、たしかトミタさんという女の子が手伝ってくれた。いま考えたら、三角錐なんだけど」

── トミタさんの名前を記憶しているんだ。いいなぁ。だったら、そのときの感情は覚えている?

「うーん、……情けない、かなぁ。当時そんな言葉知らなかったけど。
 泣くとこまではいかないまでも、気の弱い子供で。東武練馬という練馬区の外れに住んでいて、野原にヒルがいるような田舎だったんですよ。そのせいか、小学校4年をアタマにしてタテで遊ぶというのはあったけど、自分から率先して声をかけて遊ぶとかいうのはしなかった。

 たとえば、母から『外に遊びに行きなさい』と言われて、友達の家の前まで行くんだけど、声を出せない」

── どうしていたんですか?

「家の前にずっと立っていて、気がついてくれるまで待っている」


── 友達が出てくるのを?

 

「そう。あと、東上線の踏み切りで、ずっと電車を見て時間をつぶして、遊んだフリをして帰宅したこともあった」

── いい光景だなぁ(笑)。


「なぜか、そういうのは母にはバレいたみたいだけど。自分で言ったのかな(笑)。
 そういう気の弱さは、いまでも残っていますよ。見えにくくなっているだけで。よく決断しないといけないときに優柔不断になるのは、その証だと思う。馬券の買い目も、いつも締切直前出し(笑)」

 新聞記者というと、積極果敢に相手に迫っていくというイメージがあるが、子供時代の中村さんは対極のところにいる。彼は長男で、妹が一人いるそうだ。

── 次の質問ですが、いま2番目に大事なこと、あるいはモノは何ですか? 1番を回答しないで教えてもらえますか。

「……2番……、うーん、人、かなぁ。いま、健康と人と、どっちだろうと考えていたんだけど」

── 人というのは「人間関係」ということ?

「そうだね。二ヶ月くらい前だと、順番が逆転していたかもしれない。めまいで、病院にいったりしたので」

 病院で精密検査を受けたが、脳にも異常はなく、「年齢かなぁ」という。


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── では、最後の質問です。最近ちょっとだけ嬉しかったことを教えてください。

「いろいろあるけれど、一月末にハタチの娘が、カミサンの誕生日の三日後にお祝いをしてくれたんだよね。
 娘にしたら、20年間の感謝を込めた会を開くつもりだったみたいで、カミサンの誕生祝いだと両親が勘違いしていることに気づきはしたけど、あえて正さなかったらしい。両親とも、そんな心遣いを見せる娘とは思っていなかったし」


── 親に似なかったのか、似たのか。いい娘さんですね。


「そうそう、祝いの日は8日だったんですが、やたら8にこだわるなぁと思っていたら、その日はお店のワインが安くなるからだったらしくて。大学生にとっては高い出費だからね。娘の誕生日は11月なんだけど、成人式を終えて、区切りみたいなものをつけたかったんでしょうね」

 中村さんは、その日出された「20年間ありがとう、お父さん、お母さん」とチョコレートで書かれたケーキを写真に撮り、スマートホンに大事そうに残していた。


 取材の最後に、「でも、百万円は高い出費だなぁ」と、自分史本についてワタシが蒸し返すと、「そこは提供の仕方にもよるかもしれない」と中村さん。たしかに、ビジネスとしての関わりだけではなく、気持ちがこもっているかどうかにもよる。価格は主観や感情と絡み合うものだ。


── だったらさぁ、昔の写真もいいけれど、いま現在の家族の写真を、プロのカメラマンに頼んで撮ってもらって、「ハレの一日」をドキュメンタリーふうにして、本の中に一章、そういうのを入れるというのもあってもよさそうだけよね。


「これからは、そういうオーダーもあるかもしれない。会社の地下には立派なスタジオもあるし。いいかもしれないですね」


── きっと、いいですよ。家族揃って、写真を撮るというのは楽しいイベントとして記憶にも残っていくし。子供が大人になると、もう家族揃って写真を撮るというのは結婚式くらいのもの。機会がなくなっていくし。それも自分たちで撮りあうんじゃなくて、雑誌で芸能人を撮影しているカメラマンが撮るとなったら、自然と場も華やぐし。

「そうですよ。そういうのは、わたしも撮りたいです。ぜひぜひ」とカメラマンの山本さんも乗ってきた。

「たしかに。それは、ニーズとしてありそうだなぁ。
 原稿持込コースの場合でも、お客さん本人が書いた原稿をそのまま本にしてもいいんだけど、自分の本のように、しっかり赤字を入れて校正する。ゲラを見るというのは、ふつうの人にはないことだけに、お客さんからすると、『こんなにしっかり読んでもらった』と喜ばれるんですよね」

 すこし話はそれるが、ワタシが下読みをしている小説誌の新人賞でのこと。応募原稿の中から一次、二次選考を通過した百編近い原稿のすべてに寸評を載せるようになったところ、応募作が前年よりも激増したらしい。
 一言、二言。落選したものに対するコメントだけに、なかにはキツイ注意も混じりもするのだが、「リアクションがあるというのは、次につながるんですよね、きっと」と中村さんがうなずいた。

 もともと「自分史」の出版は、小さな印刷所が自費出版の柱として始めたものが、今では大手の出版社が参入するようになった。商圏の拡大とともに、出版不況で余剰となった人員の受け皿としての意味合いもある。そういう目でみると、なんだか後ろ向きになりがちだが、読者を「顔」が見える範囲に絞り、作る過程をイベント化する「自分史」というか、父親や母親への感謝の気持ちとして一冊本をつくるというのは、親孝行としてありなんじゃないかなぁ。中村さんと話しているうちに、そう思えてきた。

「将来的に一家に一冊、自分史や我が家の歴史みたいな本が置かれるようになってもおかしくない時代がやってくるんじゃないか。ぼくも、いまは、そう思っている。つまり、ふつうにあってもいいものというか。
 電話ができときには、一人一台のケータイ電話の時代が来るなんて誰も思わなかったはず。クルマもそうでしょう。この仕事をやりはじめて、180度くらい考え方も変わりましたね。面白いもので(笑)」

 認知症の父の本をつくりたいという女性、がんでなくなった子供の本をつくった母親。もちろん一代で会社を興した人もいて「社会の縮図」のようだという。
 そういえば、中村さんとよく観に行ったイッセー尾形のひとり芝居の舞台も、ふつうの人たちの「幸せな一時」「辛い時」を切り取ったものだった。自分史に似ている。

「ええっ、そうかなぁ。イッセーさんほどの人と比べちゃまずいでしょう」


── ふつうの人たちの生活史という視点でいうと、イッセー尾形のひとり芝居もそうじゃない。舞台の袖でイッセーさんが、ナマ着替えし、暗転するごとに何人ものふつうの人たちの「生活」の一コマを演じてみせていたのは、あれは究極の「自分史」の一コマの集合体にも思えたりするんだよなぁ。


「そうか。そういうのがあるからアサヤマさんは、自分史に興味をもったのかもしれないね」


 なんだかハナシをまとめられてしまった。著者インタビューの原稿を見てもらっていたとき、ゲラになるとワタシの文章が巧妙にリライトされていたのを思い出した。
 最後に、新宿の雑踏の中に立ってもらい、手のひらを見せてもらった。

 

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ps.インタビューしてから季節も変わり、「あれから」と中村さんがメールで書いてきた中に、こんなエピソードが。 

 
 遠方の県のご高齢の一人暮らしの女性が、郵貯で内金の数十万円を引き落としたら、郵貯→県警と連絡がいき、「振り込め詐欺」の確認電話がかかってきたがことがありました。この方は、大学ノートにひたすら書いていて、「。」もほとんどないような原稿です。夫を亡くし、一人暮らし。 
「何度も書いては、もう年だしだめかなあ」と電話で繰り返されていて、「これは本を作ってあげることが、この人の幸せだ!」と電車を乗り継いで駆けつけた次第です。駅から歩ける距離にある一戸建てにお住まいで、すてきな籠細工や人形を作っている方です。でも寂しいのかなあ、背中を押すとしゃべる人形を2体お持ちで、話しかけられていました。年齢のこともあるし、早く作って届けたい、と思っている次第です。
 
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