「ウラカタ伝」

ふだん表に出ないけど、面白そうなことをしているひとを呼びとめ、話を聞きました。

浮雲のようなライター人生。20年がかりの取材でノンフィクション賞を受賞した作家さんの書店営業に同行しました

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【わにわにinterviewウラカタ伝⓬】

『黙殺』の畠山理仁さんに話を聞きました(2/3)

 

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インタビュー・文=朝山実
写真撮影 © 山本倫子Yamamoto Noriko

 お役に立てるなら掃除でも何でもさせてください、というノンフィクション賞受賞作家さんの押しかけ書店訪問に密着しました。

 

 20年間、活字にもならないのに黙々と取材をし続けてきた「無頼系独立候補」の人たちのルポルタージュ『黙殺 報じられない"無頼系独立候補"たちの戦い』で、第15回開高健ノンフィクション賞を受賞した畠山さん。プロフィールに「学生時代からライターの仕事をしていた」と記されている。
 学生なのにライターって、がっちり稼ぐタイプ?と思えたが、編集プロダクションで誌面のレイアウトからテープ起こしまでやって、月給3万円のバイト丁稚だったという。前回に続き、そんな畠山さんの「受賞前史」を聞いた。

 2018年1月末、前日の大雪が残るこの日。埼玉県久喜市くまざわ書店アカデミア菖蒲店さんから2店舗目のときわ書房志津ステーションビル店のある千葉県佐倉市へ。畠山さんが運転する愛車の中でのインタビューです。

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大雪の翌日。郊外の書店訪問をする畠山さんが運転する愛車に同乗した

 (前回を読む☞ココ)


──編集プロダクションでのバイト体験は後々、役立ちはしたんですか?

「その編プロが請け負っていた『週刊プレイボーイ』の仕事を入ってまもなくやらせてもらいました。週プレの編集部で毎週、企画会議に出席し、提案して通った企画を取材して記事を書く。その原稿料はぜんぶ編プロに振り込まれるんですが、あるとき振込み通知書を見てしまうんです」

──見たというのは、たまたま?

「そうです。たまたま。『お、あの記事はこんな額になっているのか!? 俺、意外と稼いでいるじゃン!』と舞い上がりましたね。
 しかも常に複数の仕事をかけもちしていたので、●●円×本数と計算したら、同世代の会社員の月給の何倍も稼いでいる」

──でも、もらっているのは3万円だった。

「いえ、その頃はすこしupして5万円だったか10万円くらいになっていました。
 でも、社長から『五年間はやらないとモノにならないぞ』と言われていたんです。入って一年や二年で辞めるやつが多いんだけど、一通り仕事を覚えてモノになるには五年かかる、と。『五年いたら一流にしてやる。そこから超一流になれるかどうかは運だ。とにかく五年間、文句は言うな、カノジョは作るな』って」

──前半部分はわかるにしても、カノジョは作るなってアイドルみたいですね(笑)。

「20代の男なんて、女が出来たら転げ落ちるようにダメになるんだってことですよね」

 畠山さん、五年間そこで勤め上げたそうだが、カノジョはいたそうだ。


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書店訪問一件目 埼玉県久喜市くまざわ書店アカデミア菖蒲店にて、店長さんから記念撮影を受ける


「それで五年経ったときに、約束どおり辞めさせていただきますと言いました。
 大学は四年間在籍しましたが、卒業するには50単位ほど足りなかったので、卒業はあきらめました(除籍)。でも、就職活動はしましたね。一度はやってみたいと思っていましたから。就職活動をしたのはテレビ局と学習塾でした」

──たしか中学までが教師で、高校で新聞記者、大学ではマスコミ志望に変わっていったということですか。

「そうですね。小学校のときに『コロコロ変わるボク』という作文を書いたんです。ええ。いま思いついたんじゃなくて。七変化のように楽しいものを見つけてはフラフラとソッチにいってしまう。柔軟といえば聞こえはいいんですが、チャランポラン。基本的にそこから変わっていないのかもしれません。
 それで、受けては落ちしたんですが、一度面接まで進んだときに、その日に取材が入って、仕事を優先したこともありました」


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──「週刊プレイボーイ」の仕事をたくさんされていたんですよね。うちで働かないというような誘いは?

集英社はなかったですね。五年が経つすこし前に、編集部の人から『フリーになったほうがいいよ』とは言われましたけど。搾取されているのはわかっているのか、ということだったんでしょうけど。『五年経ったらフリーになりますが、いまは約束がありますので』と言った記憶があります」


 畠山さんは、約束の五年を終えると独立を申し出た。

「辞めるにあたって週プレの仕事だけは続けさせてください、と編プロの社長さんにお話しして『わかった』と言ってもらえました。フリーになるのにまったくゼロからだと干上がってしまいますから。
 円満? わりとそうだと思います。フリーになるときは消費者金融に100万円くらい借金があったんですが、社長の仲間の人に助けてもらいました。『おまえ、サラ金金利を払うなんてバカらしいぞ。立て替えてやるから返せるときに返せ』と100万を渡されて。その借金は半年くらいでお返ししましたが。
 そのあと社長から仕事を振ってもらったこともあります。僕は結婚式はしなかったんですが、妻の故郷が青森で、親族顔合わせの会を青森でやったときにも出席してくれましたし、婚姻届けの証人にもなっていただきました。この間の(開高健ノンフィクション賞の)授賞式にも、100万円を貸してくれた方と一緒に来てくれました。

 高校時代の彼女ですか? 彼女は一つ年上で、彼女が就職するときにフラレていましたね」


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二軒目 千葉県佐倉市「ときわ書房志津ステーションビル店」では“公約”どおりモップ掛けを申し出る


──それにしても畠山さんの奥さん、すごいですね。結婚して、畠山さんがフリーランスだったときに就職するかどうか迷っているときに「やめとけ」とセーブされたというのは。

「そうですね。すごい人だと思います。
 妻との出会いですか? 彼女は広報と宣伝を請け負う会社で取材の窓口業務を担当していたんです。僕は当時『Bart(バート)』という雑誌でデジタルグッズの連載をもっていて、その取材で知り合いました。篠原ともえちゃんも参加するCD-ROM
を担当していたのが彼女で、その後も別の仕事で何回か会い、『今度飲みに行きましょう』ということになった。切り出したのは僕からです。飲みに行ったら、めちゃくちゃ酒に強い人で話も面白い。時間が足りないくらい連日朝まで飲んでました。それでも彼女は会社にふつうに出勤する。すごい人なんです(笑)」

──奥さんは、結婚してから仕事のほうは?

「二年くらいは続けていたんですが、ちょっと体調を崩して退職しました。その後は日本語教師になりたいと言うので、『やったらいいんじゃない』と。それで会社を辞めて一年、学生をしていました。免許は取ったんですが、教師のクチがなかなかないみたいで働くまではいきませんでしたけど」

──ということは畠山さんの収入だけ。子供も生まれるというときに『通販生活』の社員にならないかと誘われ「就職するよ」と報告したら、意外にも断るようにといったということですか?(前回に出てくる)

「そうですね。言われたんですよね(笑)。もうひとり、辞めとけと言われた人がいるんですけど」

──どなたですか?

大川豊総裁(お笑い集団「大川興業」)です。総裁の政治連載をお手伝いしていた頃に相談したところ、『会社員は無理じゃないか。好きなことを好きなように追いかけてないと死ぬぞ。俺たちはマグロみたいなものなんだから』と言われました。
 ただ、当時はいつも一緒に取材をしていたので、小回りの効く手下がいなくなると困ると思ったというのもあったのかもしれませんけど(笑)。総裁にまで言われたのは大きかったですね」

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『黙殺』の販売場所を確認。日野店長さんの許可をえて、撮影する

──総裁と奥さん、どちらに先に相談されたんですか?

「妻が先ですね。総裁には『妻にやめといたほうがいいと言われたんですが』と相談したところ、『それは奥さんの言うとおりだ。奥さんはよくわかってる』と」

──でも、ほぼ決まりかけた就職を断るのも大変ですよね。

「言いづらかったですね。いろいろ考えた末、『ありがたいお話なんですが、家族の理解が得られず申し訳ありません』とお断りしました。よかれと思って声をかけてくださったわけですし、本当に申し訳なかったと思っています。声をかけていただいた相手の方は、後に編集部から他の部署に異動になって、その後、会社を辞められました。でも、いまでも付き合いは続いていますし、開高健の受賞式にも来てくれました」

──話を伺っていると畠山さんは、たくさんの人に好かれるひとなんですね。

「そうなんでしょうか。自分にはない『いい加減さ』があるから、みなさん心配してくださっているんじゃないでしょうか。長い付き合いの編集者から『永遠の弟』だと言われたことがありますけど」

──愛嬌があるというのが大きいかもしれないですね。ふだん、仕事じゃない場面だとよくしゃべるほうですか?

「うーん。職場は基本一人ですからねぇ。家庭では、僕よりみんなしゃべるので、聞いていることが多いです。
 子供は二人です。高校1年と小学3年生。ふたりとも男の子です」

──受賞を子供たちは?

「よかったと喜んでくれていますね。上の子は小学二年生で『記者会見ゲリラ戦記』(扶桑社新書、以下『ゲリラ戦記』と略)を読んでいましたし、今回の『黙殺』もすぐに読んでいました。ボソッと『面白かったよ』としか言わないですけどね(笑)。
 彼は読書好きで選考委員の方たちの本も読んでいたので、授賞式のときは藤沢周さん、姜尚中さんにサインをもらえたことを大喜びしていました。
 下の子は『黙殺』のプロモーションビデオを見ていたので、マック赤坂さんや立花考志さん(「NHKから国民を守る党」)に会えると行く前から喜んでいました。マックさんとはスマイルポーズ、立花さんとは『NHKをぶっ壊す!』という決めポーズを一緒にとって写真を撮ってもらっていました。結局、選考委員の方々とは一枚も写真を撮っていませんでしたね(笑)」

 

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集英社の担当編集者の長谷川さんが駆けつけた
 

──『ゲリラ戦記』を先日拝読しましたが、面白いですね。とくに《総務省記者クラブ室前で、私は「枕」に出会ったのだ》という話(p.195)。総務省記者クラブに配置された二人の女性職員さんが、クラブの新聞記者さんたちが使う枕カバーを縫っていたというのを見つけて書くというのが畠山さんの個性なんでしょうね。

「彼女たちは公務員で、記者の接待をするのが仕事です。まわりの人たちは見慣れた光景なのか、誰も驚いていない。でも、記者が仮眠に使う枕カバーを公務員が縫うというのはどう考えてもヘンですよね。だからつい『その枕は何ですか?』と聞いたんです」

──そんなこと各自でやれよという。なんでそんな母親みたいなことをさせられるのかと疑問を抱く話なのに、クラブの記者さんたちは当然のように受け入れているということなのかな。

「そうですね。最初からそういう待遇だと不思議には思わなくなるのかもしれません。
 どうしても僕はそういう細かいところが目についてしまう。基本的にいつもアウェイの立場というか、ヨソの人の目で見ているんですよね。
 でも、もしも自分が新聞記者になって最初からその立場にいたら、『ああまたフリーがウルサイこと言っているな』と思っていたのかもしれない」

──畠山さんだと、それはおかしいと声をあげるんじゃないかな。ちがうのかな。

「言うんでしょうか? 果たして私にそういう勇気はあるんでしょうか(笑)」

──仮に新聞記者になっていても、何だか途中で辞めるタイプには見えますが。

「うーん、どうかなぁ……。知り合いの新聞記者を見ていると、わりと自由にやっていて楽しそうだなあと思います。ただ、なれなかった話をいろいろ考えても意味がないですよね(笑)」

──いまからでも中途採用したいというと誘いがあった場合どうですか?

「そういう新聞社は潰れそうですよね(笑)。それにまた妻に反対されるかもしれない。
 そういえば、30前のときに新聞社に挑戦してみようかと思って相談したことがあったんですよ。そのときもやはり妻から『やめといたほうがいい』と言われました。まったく組織には向かない人間だと思われているんでしょう。でも、彼女のご両親は郵便局員で、固い職業なんですよね」

──父親とはちがうタイプを選ばれたということなんでしょうか。

「そうかもしれないですよね。ただ、だらしないところは義父と似ているとは言われますね。『血はつながっていないのに、そっくりだ』って(笑)。
 妻の実家に行くとお父さんは、酒をとりあげられていますから。『もう、飲まなくていい』と言って彼女(義父からすると娘)が飲んでいる。義父は酔うと話が長くなるのが嫌みたいです。クチは妻のほうが立つし。それでお父さんはフテ寝するというのがパターンで。
 でも、賞をもらったあとに、いろんな人から『奥さんのおかげだよね。奥さんが書いたようなものだ』と言われました」


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「著者が書店さんにいきなり電話をかけ、ご挨拶に伺っていいものなんでしょうか」今更ながらだが書店訪問について細々質問する際も折り目ただしい。

 

 

──受賞の副賞300万円が借金返済に消えたというのはそうなんですか。


「はい。取材の累積赤字と、滞っていた家のローン返済に当てたらなくなりました。まだ完済したわけではないです。家を建てるときに銀行から借りることができたのが350万円。32歳のときで、一軒家です。家を建てるための生前贈与だと1500万円までは非課税という優遇措置があったときで、両方の親から1500万円ずつ贈与してもらい、残りを借金しました」

 30代で持ち家だなんて勇気のある決断だが、奥さんの両親からの「家を買うなら援助する」という申し出が後押しになったという。背景にはフリーライターという不安定な暮らしをする娘の夫に対する配慮があったらしい。

「足りない分は貸していいただくということで、親戚の税理士からアドバイスを受けながら、返済計画を決めて借用書も交わしました。妻のおかげで買えた家ですから、家の登記の持分は妻のほうが多いんですよ(笑)」


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車中のインタビュー。人生で「困ったこと」を問うと、畠山さん「うーん……」
クルマを運転しながらしばし空を見上げていた。

 

追伸
前回のお話で、畠山さんが名古屋の予備校生時代にヒーローショーのアルバイトをやっていた「アクションクラブ」の田尻茂一社長さん。現在は東京に移られ活躍されています☞コチラ

👇【おまけ】タイで暮らす友人がやっているサイトに『黙殺』のことを書いています

http://www.norththai.jp/ex_html/ma/views.php?id_view=8


次回完結編。『ニッボン国VS泉南石綿村』原一男監督のインターネットTV番組のゲストに畠山さんが招かれた場にもオジャマしました。
(つづく)