起きてもないことを心配して、芽をつぶすのはよくないと思うんですよ。
わにわにinterview③島根と福島のハナシ
島根県松江市在住のシンガーソングライター、
浜田真理子さんに話を聞きました【5/6】
(あらため、
真理子さんから、じゅずつなぎ)
福島県相馬市で「みんなのしあわせプロジェクト」を立ち上げられた
佐藤定広さんに話を聞きました(後編)
インタビュー・文=朝山実
撮影©山本倫子
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ふたたび音楽を聴きたくなった佐藤さんの話 - 「ウラカタ伝」
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佐藤定広さん(以下同) いゃあ、不思議だったんだけど、障害を受け入れさえすれば、ひとの幸せは別なところにあるものだというか、標準的な生き方が幸せだとは限らないというかね。
緊張しながらの質問にもかかわらず、佐藤さんの口調はやわらかなままだった。
── もともと佐藤さんは、ポジティブなものの見方をするひとだったんですか?
うーん、わぁっしは、もともとヘンなひとだったかもしれない(笑)。
それがね、確信に変わっていくというか。まわりに同じ障害をもった子供たちのお父さん、お母さんがいて、励まされるというのでもないんだけど、「ああ、こう考えればいいんだぁ」と前向きになる。
── 前向きに、ですか。
子供たちは、心臓が弱い子が多いんですよ。なかには「心臓手術がうまくいかなくて亡くなって辛かったけど、いつも子供が一緒にいて暮らしているんだよ」と話されるひとがいて、そういうのを聞いたりしても、まあ、ふつうはそういう感覚わかんないですけど、そうかぁと。……面白いというのは、適切ではないと思うけど、勉強になる。子供たちがいることで、まわりが明るくなるしね。だから、ぜんぜん悪いことではなかったですね。
なんか、浜田さんの話とずいぶんズレちゃっていますけど、いいんですか?
── いいです。ぜんぜんズレていないかもしれないし。佐藤さんは不思議だなぁというのがあって。
ハハハハ。で、そういう親の会があってね。いちばん最初は、そうそう、水越けいこさんという歌手のひとがいて、その方の息子さんがダウン症でね、そのひとを呼ぶのに森田さん(相馬市のCDショップモリタミュージック)と知り合ったんです。
そうそう。そのあと、荒川知子さんという高校生でリコーダーを吹く女の子を呼んでコンサートをしたんですが、これがあまりに素晴らしくて、「障害者の」という言葉がいらない。もう、うまく弾こうとかいう発想が頭の中にないのね。
── それはこの子の絵(「えんどう豆」で作られたトートバッグを見せる)みたいなものですか?
ああ、そうそう(笑)。荒川さんのお兄さんは、新日本フィルで首席のフルート奏者で、音楽一家なんですよ。ジブリの音楽なんかも吹いている。そのお兄さんよりも、すごいなぁと思った。鳥肌立ったもの、最初に聴いたときは。
障害があるとかいうのは関係ないんだなぁと。まわりは、みんな幸せになるなんだよねぇ。場所の空気を変えるくらいに。演奏が。ひとの存在が。これは、かわいそうなひとを支援するとかじゃないんだなぁと思った。
それで、仕事をやめて、福祉の世界に入ったんです。作業所の仕事に就いたの。
── 佐藤さんは、それをきっかけに建築の仕事はやめられたんですか?
そう。そのあとに「えんどう豆」のほうの所長になったんです。
── それは震災後?
いえ、震災前です。
── 建築の仕事から福祉のほうに専念となると、収入は減りますよね。
何分の一ですね(笑)。
── 迷いはなかったんですか?
迷いがないか、と言われると、それまで大事に積み上げてきたものを捨てるのは、もったいないなぁというのはあったですよ。でもぉ、好奇心というのでもない、使命感というのもないけど、まぁ、うちの嫁さんのほうが普通の企業に勤めているんで、逆でもいいじゃないねぇという。フフ。
── 奥さんが仕事を続けて、一家を支えるかたちになった?
お金のことでは不安定になるかもしれないけれども、やってみましょうかという。
── 建築の仕事との兼業は難しかった?
やってもいいわよ、と言われたんですけどね。仕事の中身がハードというか、神経をつかうもんですから、どっちつかずになるなぁと思って。
最初、建築の本をね、一冊3000円とかするのをいっぱい買って、ツライなぁと思ったりしていたんですよ(笑)。
その並んでいる本がね、だんだん福祉の本になって。建築の勉強も続けてはいたんですけど、これはダメかなぁと思った。
好きだったんですよ、建築は。
── それは30代になってからですか?
40になってからかな。
── (外の風景を見ながら)いま、ここは、いまどのあたりですか?
原町といって、25キロ圏内で、南相馬市内ですね。
── きのう、打ち上げの席で隣り合わせになったひとに話をうかがったんですが、南相馬に家があって、家の側の道路をひっきりなしに除染のトラックが行き交っていて、それが日常の風景になっていると話されていた。トラックの音が途切れることがないって、すごいなぁと思ったんですが、きょうは日曜だからなのか、クルマの量も少ないしトラックもそんなに目立たないですね。
きょうは少ないですね。いま一台すれ違いましたけど、トラックのナンバーが違うんですよ。いまの、新潟だったですけど。何台も、ずーっと県外のナンバーが数珠繋ぎで走っていくんですよ。朝は渋滞、帰りも渋滞です。
── 日曜だからなのか。
話は戻りますが、浜田さんに見せたいものって、どんなことだったんですか?
浜田さんは、わかっているというか、わかろうという力がすごいと思うんですよ。アンテナの感度が高くて、住民に寄り添うことができるひとなんだなぁという印象ですね。大友(良英)さんのプロジェクトがきっかけだったと言われていたけれど、わっしの友だちが大友さんの弟さんとバイク仲間なんですよ。それでたまたまというか。
── 音楽仲間じゃなくて。
そう。バイクです。
── この先は海ですか? 周りの建物が少なくなりましたね。
いまは建築制限もしていて、建物を建てられないから。この辺から、そろそろ20キロに入るので。雰囲気が変わって、人がいないんですよね。前はまったくね。
── 歩いている人、いないですね。
……(浜田さんは)傷ついたひとの気持ちを歌うというか、そこに寄り添うというのがすごいなぁと。
── 先日、浜田さんに、スクールを始められた理由を聞いたんでよね。震災から一年した頃に仙台であったチャリティーコンサートに招かれて行ったら、後日お客さんの一人から手紙をもらって、「こんなときに、あんな歌は聴きたくなかった」と書かれてあったそうなんですね。海という言葉が出てくる歌だったというのもあったみたいですが。文章はきちんとしたものだったから、へこむほどこたえたって。自分がやるべきことを考えたというんですね(※「浜田真理子さんに聞く」連載1回目にお戻りください)。
そうなの……。あ、ここが20キロです。除染のゴミの仮置き場が、あそこに見えるでしょう。黒い袋が積まれている。
── けっこうありますね。
あるでしょう。
── それで、浜田さんは、いまは自分が被災地に行って歌ったりするときじゃないと思ったという。その浜田さんが、今回福島に歌いに行くというので興味があったんですよね。
あのときは、どんな歌も聴きたくないというのがありましたからね。ミュージシャンのひとたちも、いろんなメッセージを出そうとするんだけど、それがうまくいかない。みんな悩んでいて……。わぁっしが聞いたなかでは、リクオさんが二年半くらいしたときかなぁ、呼んでくれたらいつでも唄いに行くよというふうなことをこっちに伝えてくれたんですよね。
それから、つながりが一杯できていって、きのうも東京から、四国から、鳥取から来てもらって、それは友達であるからということのほうが大きくて、これが支援をしているというのだと続かないと思うんです。
くるりの岸田クンとかも、えんどう豆に来て、子供たちとムギュウ!とかふざけあって、すごい相性がよくてね。すぐに子供たちと友達になれて、うらやましいなぁと思って見ていた。
── ワタシ、そういう子供といっしょになってというのができなくて。
わっしも、そういのは苦手てでねぇ(笑)。
── 佐藤さんも苦手なんですか。
苦手なんです。
── 苦手でも所長さんがやれるというのは、苦手でもいいということですね。
支援してあげていますよぉ、というものより、友達だからというメッセージのほうがずっと強いとつながっていられるんですよね。浜田さんも今回つながりがあって来てくれているし。
── 以前に一度、佐藤さんが松江に行かれたからというのもあってですよね。
それもあるとは思います。ふつうのひとたちだからね。反原発と声高に言うんではなくて、スクールMARIKOに集まっているひとたちはプレーンな感じでね。あ、ここがもう小高ですね。この辺まで津波が来て、車がゴロゴロ転がっていたんですよね。
ここは、人がまだまだ少なくて、昼間は入っていいんだけど、夜住んじゃダメみたいな感じなんですよね。
来年の4月から避難の指示が解除されるんですけどね。いま、ようやく町は復興に向けてやっと動きだしたところでね。鉄道もずっと止まっていて。見てもらったらわかると思うだけど、町に人がいないんですよ。
── まったく姿がないですね。
ね、テーマパークじゃないんだから(笑)。
── 夜、明かりはどうなっているんですか?
街路灯は点いています。再開に向けて、市役所や消防署は活動しはじめていますけどね。
── 住民は?
基本的には、いない。申請を出して、「準備宿泊」といって、お盆のときだけは帰っていいとかいわれる。この辺りは、震災で壊れた家は取り壊されて、見た目はそういう光景がなくなりはしたんだけどね。
── ここを浜田さんに案内されたんですか?
そうですね。この床屋さんは、水道が流れていないときもやってて。電気はあったんだけど。「では、あなたはここに戻りますか?」という状態ではあるんですよね。
── 外にいる人間としては、なぜそんなにまでして戻ろうとするのか。正直、理解できていないところがあるんです。とくにワタシなんかは10代のときに家を出て、転居を重ね、もともと故郷に対する感覚じたいが薄いこともあるからなんでしょうけど。
東京のひとは、そうかもしれないですね。ここら辺のひとは、ずっとここで住んできましたから、ここに住むのが当たり前という感覚がねぇ。
この駅もね、来年通すというんでペンキを塗り替えて、準備をしているところなんですよね。
── きれいになっていますね。
あそこの自転車もね、誰も人がいないときはウソみたいな光景だったんですが、自転車は3.11の日からそのままなんですよ。そのまま。津波を被ったままで。
── ここで降りて、歩いてみていいですか。
そうしましょうか。
クルマを降りたのは、小高駅の前だった。駐輪場には、整然と自転車が停められていた。近づくと、どの車体も傷んでいた。駅舎の反対側には、ずっと遠くまで平地がひろがっている。
後日、持ち主の帰りを待つように整然としていたことが気にかかり、ネットを検索していると、自転車は近隣の誰かが整理したからで、時が止まったかのように見えるが、あの日のまま放置されてきたわけではないというツィッターの書き込みがあった。
島根にいったときは、愕然とした(笑)。あまりにのどかで。出雲からローカル線に乗って松江に行くまでがねぇ。
福祉用語でいうと、レスパイトというんだけど、ほっとするんだよね。ここにいるとみんな知らない間に我慢して生きている。その我慢していることも日常になって、わからなくなるんだよね。だから、ホッとする。安心するというか。行ったときは、子供が公園で遊んでいるということに驚いたりたりしたからね。
── ワタシはこうして震災から何年もして初めてこの地を訪れることに、ある種のうしろめたさみたいなものを感じるというか。音楽会というイベントがなければ、そこに浜田さんが参加するということがなければ、ずっと足を運ぶということもしなかっただろうし。そのもやもやは、もうずいぶん昔だけど、沖縄に遊びに行くというのができないでいたのに通じるというか。
沖縄ね。わっしも、ああ、こういうことなんだなあというのは感じるようにはなりましたね。バクハツしたときに、国は自分たちを守ってはくれないというのは感じましたしね。これは見捨てられたと思った。
「避難しろ」という一方で、「直ちに健康の被害はありません」と言ったりするんだからね(笑)。沖縄もこんなふうにされてきたんだろうかなぁというのはね。
── 佐藤さんは、現況を伝えたいというのは、ずっとあるんですよね。
でも、ずっとやっているとそれが個人的な闘いになってきてしまうんですよね。
わぁっしのやっていることを見て、ひとによってはインパクトが弱いと思われたりするのかもしれないけれど、わっしは、わっしだから(笑)。
── たしかに、ひとそれぞれですよね。
いまは静かだけど、余震があったりすると仙台から自衛隊のヘリコプターが、ドカドカドカと音をたててやってくるんだよね。様子を見に。もう、それがトラウマになって。みんな。もう一回地震が来るかもしれない。また避難しないといけない、という可能性があったのでね。
もう一回、同じ程度の地震が来たら、もう日本は終わりですからね。それを考えたら、戻らないというひとたちもいて。それでもマヒして、いまは地震があっても寝てられるようになったですけどね。
家族が、残るか、出ていくかでバラバラになったりしてね。そういう避難者が10万人もいるというのに、原発を再稼動するというのはどうなんだろうね。すごいですよね。というか、もう5年過ぎて、終わったことになってしまっていますね。だから、伝えようとしてもねぇ(笑)。
「頑張っています」はメディアも好んで取り上げるものの、町が復興に向かっているなかで、マイナスの情報は無いかのようにされがちだ。
「あそこの花壇は、誰もまだ人がいないときに植えられたものだけどね」
佐藤さんの視線を追うと、ロータリーによくある、咲き誇った花が並んでいた。
── 駅がきれいになっても、人がいないと寂しいですね。
なんのための駅なんだかね。
── 佐藤さんは、この様子を知ってもらいたいというのがあるんですか?
忘れたい。……どっちかというと、忘れたいというのが正直な気持ちかなぁ。震災前の人生に戻れるならそれに越したことはないから。
でも、伝えたいというのはある。両方をしていくしかないかなぁ。
── それは使命感のようなものですか?
使命感……。うーん、ここにいるからね。伝える手段が何もないわけでもないのでね。
── 佐藤さんには、ここを出るという選択肢は?
それはないです。
── 即答でしたが、どうしてないんですか?
うーん……言葉で説明するのが難しいんだけど、震災で仕事とかぜんぶ失ったんですよ。そのとき、相馬が好きだというのがわかった。
何も仕事をしてなくて、同年代のひとち、消防団に入っているひとたちが遺体の捜索に出ていくんですよね。そういうときに、自分は家にいる。「ああ、仕事というのは、人のためにあるんだなぁ」と感じたからね。
そこから何もしないで二週間いたら、人間おかしくなるというか。……でも、みんなそうだったんじゃないかなぁ。落ち込んでいたのは。戦争と同じような状態というか。空気が違っていた。線引きがされて、ここから先、海のほうに入ってはいけなかったしね。
もう、あのときの空気をね、言葉で伝えてようとしても難しいんだけど……。
同行していたスクールMARIKOの関係で鳥取からやってきていた女性が、「わたしね、福島にボランティアで入っているときは、気持ちが現場にいるから保てるんだけど、帰ってしまうと、ブログにそのことを発信しようとするんだけど、できないんですよ。材料はあるんだけど」と話す。佐藤さんは、黙ったまま肯いている。
── そういえば、ワタシ、学生の頃に三里塚に農家さんのところに援農にいったりしていたことがあって、ゴボウを引き抜いたりして農家の手伝いをしているとそこが居場所となるんだけど、そこから出ると生活エリアでのギャップで感覚がおかしくなるというか。何してんだろうって。
それはそうかもしれない。ここに戻ってくるひとたちは、ここの自分が大事だと思うからじゃないですかね。ただの場所、ただの空間のようなものなんだけどね。でもね、それを奪われるというのは、「あんたはいらない」と言われるにも等しいことだから、それはちょっとツライっすよね(笑)。60になって、仕事なくなって、新しいところに行って暮らせと言われても、ライフスタイルを変えるのはねぇ。
駐輪場の近く、道路に除染の黒い袋が積み上げられた家が見えた。以前は、庭の樹が手付かずで、鬱蒼としていたという。
(除染のゴミの)最終処分場は、県外といわれているけれども、どこが受け入れてくれるのかなねぇ。そんなの約束すると言われても、「わたしはウソツキですよ」といっているのと同じようなものだからねぇ。
淡々とした口調で、佐藤さんは笑う。怒るとかそういうのではない。笑うしかないのだろう。
── 佐藤さん、写真、いいですよね? ポートレイト。というか、さきほどから撮らせてもらっていますが。
アハハ。わっしの写真、いやだけどね(笑)。
いやといいながら、カメラに正対して、はにかむ。いい顔だった。
そんなやりとりをしていると、小さな男の子を抱いた若い男性があらわれ、佐藤さんと会話を交わしはじめた。
「だけど、受験生がいるのかな」「どうなんだろうね」。小高地区にあった商業高校と工業高校が合併して再開する計画があるらしい。
男の子が、きょろきょろしながらも父親の腕の中でおとなしくしている。
「えらいなぁ坊や。人見知りしないんですね」ワタシが声をかけたとたん、男の子の顔がゆがんだ。
たくましく見えたが、知らない視線を一心に浴び、我慢していたのかもしれない。にこやかに頭をなでる父親に、男の子は顔を押しつけるようにしてしがみついていた。
「子供は、希望だから」
佐藤さんが朗らかに言う。
じゃぁ、戻りますか。相馬に戻るよりも、南相馬からも福島までバスが出ているから、そっちに向かってみましょう。
途中、数分だからと迂回して、津波にのみ込まれた土地に立ち寄った。
「ここは自販機が田んぼのなかに転がったりしていたんですよね。あそこの家もとり壊されたんだなあ」と説明された。海側にあった集落は壊滅したという。何か言おうとするものの眺めるだけで言葉が出てこなかった。
── 怒りのようなものはあるんですか?
国の対応に関してはありますけど、自然に対しては、もう、しょうがないというか。原発事故の対応に関しては、人災と思うのでねぇ。
── 佐藤さんは何年生まれですか?
わぁっし、(昭和)37年です。気持ちは、まだ40代なんですけど(笑)。
あっという間でしたね、40代は。若い頃は、オフロードのバイクを乗り回していたんですよ。山を走る、ツーリングとかしてた。そのときに大友(良英)さんの弟と知り合って。山道を2時間耐久レースとかね、やっていたの。いまは、ときたま乗るくらいですけど。
もともと福島って、マイペースで楽しんでいるひとが多いんですよ。DASH(ダッシュ)村が近いんで。南相馬の隣村の浪江町にあるんですが、そういうスタイルが残っている。いいところだったんですよ(笑)。
だいなしですよね、原発で。
子供が心配だからというんで引越したひともいるし。子供が結婚というときに「福島?」といわれる可能性はあるなぁとか。原発が爆発したときは、そう思いましたよ、一瞬。
── いまは、どうなんですか?
チサンチショウです(笑)。
── チサン…?
ほら、産地ごとで消費するの。
── ああ、地産地消。
そうそう。
── そういえば、広島の原爆のときには、そういう差別があったんですよね。
今後、そういうのは出てくると思いますよ。福島じたいが差別の対象になって。農産物もね、よそのひとたちに食べてくださいともいえないし。無理して食べてもらうことでもないもしれない。
── 福島産の野菜は、スーパーでよく見かけたら買ったりしますが。
どっちかというと、(福島というので)安くなるんですよね。
── ああ、そうですね。
大丈夫だよと言われても「安全」と「安心」は違うというか。
── 基準を決めている国そのものに信頼がないというのもありますからね。
安全値を都合で変えたりしてね(笑)。でも、スクールMARIKOが面白いのは、避難者を受けている人とか、学者とか、一般市民の目線だとか、いろんな角度から偏らずに取り上げていることですよね。
── 基本的には原発に対して懐疑的という。
だからといって、拳はあげないんだよね。
しばらく沈黙が続いた。もうじきバス停だという。いつもながらのピンボケさだが、佐藤さんがいう「地産地消」が含む意味に、ワタシはようやく見当がついた。いつも理解するまでにずれてしまう。
── くるみちゃんのこの絵、すごく好きなんですけど。真似ようとしても、大人は真似られないですよね。
そうね。これ、でもチョー初期ですよ。くるみちゃんは、原発後に避難していて、もともとは「えんどう豆」の利用者じゃなかったんです。
6月に入ってきて、お母さんが仕事されているんで朝早くに来て、その間、ひとりで絵を描いていたんです。これなんか、震災の年のときの絵。朝のラクガキです。でも、そのときのがいちばんインパクトがありますよね。後ろに描いてあるのは、AKBなんですよ。
── 一列になったこのアリンコみたいなのが。
それ、AKBなんだそうです。
── これを描いたときの年齢は?
ハタチくらいだったかな。いま23歳かなぁ。わぁっしが、「くるみちゃん、こういうのを描いて」とかいうと、「いやだ」といわれるんです。描きたいものしか描かない。
── 巨匠ですね。
そうですね(笑)。
── これをグッズにしていこうというのは、どのあたりから?
作業所でね、缶バッジを作ったんですよ。くるみちゃんのが、いちばん人気でね。くるみちゃんに描いてもらえませんかというリクエストが入るようになった。ラクガキを集めたら、自然とキャラクターができあがったんですよ。
── くるみちゃんに注目が集まり、子供たちの間でぎくしゃくするというのはないんですか?
子供たちの間には、ないですね。まったくないということはないかもしれないですけど。たとえば、きのうステージでピョンピョン飛び跳ねていた子は字が上手でね。かわいい字を書くんですよ。みんなそれぞれに得意な分野があるので、やっかみはないですね。
── それは施設の運営するひとたちの努力があってのこと?
いゃあ、天然ですね。みんなピュアで、うらやましいくらいに(笑)。
── 会社とか学校とかで、突出した存在がイジメにつながったりというのをよく聞きますが、そういうがないというのはいいなぁ。
いろいろ心配して言われたりもするんですが、そういうのはないですね。ゆるーくやっていますから(笑)。
まだ起きてもないことを心配して、芽をつぶすことのほうがよくないと思うんですよ。大人の社会には、こうしないといけないという考えのひとがいて、それでツライ思いをしたこともありましたけど。
── いまは楽しいんですか?
いや、ツライですねぇ(笑)。
── 笑っておられるけど、ツライんですか?
生き方としては面白いんですが、忙しすぎてね、タイヘンです(笑)。
ツライ、と口にしながら笑顔でハンドルを握る佐藤さん。ふいに、渥美清が演じた泣き笑いのキャラクターのあの顔が重なった。
駐輪場の自転車だが、わたしたちが訪れたその後、撤去されたらしい。
※ 文中、えんどう豆や福祉施設の利用者にたいする表現で「子供」と言いあらわしている箇所がありますが、利用者は未成年者とは限らず「成人」もおられます。ただし、その場の会話の流れをいかしたいので、書きかえずにそのままにしています。
☝くるみさんの絵を使ったトートバック(撮影=朝山実)
☟つづく
佐藤さんが書き続けている☞南相馬ファクトリー日記