「ウラカタ伝」

ふだん表に出ないけど、面白そうなことをしているひとを呼びとめ、話を聞きました。

「こまったら、こまむら。」のヒミツ基地を覗いてみた。


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【わにわにinterviewウラカタ伝⑦】
「こまったら、こまむら」
ITプログラマー出身、調査から鳶職までこなす便利屋・駒村佳和さん【1/4】

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インタビュー・文=朝山実
写真撮影 © 山本倫 

 


 一枚よけいに上着を着込んで、南大沢駅に着いた。「なにもない倉庫なので、寒いです」といわれていたからだ。
 調布より西に位置する駅のロータリーで、「シルバーのライトエース」を探していると、待ち合わせ時間きっかりに駒村さんが現れた。10月も終わりの頃だ。


"こまったら、こまむら。"
 駒村佳和さんの仕事は、便利屋さんだ。1977年生まれの、現在39歳。「便利屋こまむら」の名刺のウラには、おもわず声に出してみたくなる、キャッチフレーズが載っていた。
 以前、土曜の午後に放送している久米宏さんのラジオ番組のゲストに駒村さんが出演されているのを聴き、連絡をとってみた。とはいっても駒村さんのツィッターを見つけてから、メールで連絡をとったのは一ヶ月以上経ってからのことだった。

「便利屋」を始める前は、鳶の仕事をし、その前はITのプログラマーだったという。久米さんが早口で、建築現場などで足場を組む仕事について尋ね、駒村さんがゆったりと返す。落語のようなやりとりで面白かったのと、理系のひとがガテン系に転職したのが意外だったのと、ひとつひとつ言葉をたしかめるような話のリズムに惹かれたのだった。
 

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 仕事道具を置いているというコンテナ倉庫までは最寄駅から徒歩20分以上かかるとかで、この日は駅で拾ってもらった。
 アップダウンのあるニュータウンは、1970年に大阪万博があった吹田の千里ニュータウンの風景にちょっと似ている。そう感じたのは、駒村さんのクルマのフロントガラスの前にちょこんと「太陽の塔」のミニチュアが置いてあったからだ。
 駒村さんが生まれる前のことだが、ワタシは中学のときに何時間も行列に並んで塔のなかに入ったことがあったので懐かしい、といったことを話すうちに目的地に到着した。閉所恐怖症のワタシは、初対面のクルマの助手席に座るとジブンからあれこれしゃべらないと不安になる傾向があるらしい。

── そのコンテナ倉庫の家賃っていくらからいなんですか?

「月2万9千円で、このあたりの相場の半額くらいですね。管理人さんが、職人さんにやさしいひとで。外で作業していてもいいよ、と言っていただけているので助かっています」

 大型の船舶用コンテナが二段重ねで並んでいる。通路を挟んで空き地に二列、団地みたいにならんでいた。
 

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── どうやってココ、見つけたんですか?

「運転していたら大きなクルマが何台か入っていくので、何だろうと思って、ついていったんですよ。話を聞いたのがマジックをしているひとで、倉庫にタネをしまっていたそうなんです。かなり遠くから来られているらしくて。ほかに、大工さんやネットショップをやられている人たちが商品の在庫を置かれていたりするんです」


 駒村さんは、足場で使う鉄パイプや工具の置き場にしているそうで、もう一箇所、べつに掃除道具などを置く場所を借りているという。30歳を少し過ぎたころに独立、便利屋をはじめて8年になる。この倉庫には、ほぼ二日に一回、自宅から45分くらいかけ、必要な道具をクルマに積み込み、現場が終われば下ろして帰宅する。交通事情で夜は日をまたぐこともめずらしくないという。


「最初は新宿にあるお寺の地下を借していただいていたんですよ。それも、たまたま縁があって。飛び込み営業をしたりしていたら、そこの和尚さんと仲のいい方が、『あそこ空いているみたいだよ』と紹介してくださって。使っていいよ、ということで」


 駒村さんは特段オシが強いふうな人柄でもない。むしろ控えめ。しかし、縁を引き当てる人生らしい。


「その話があった直後に、大きな片づけの仕事が入って、引っ越すまでの間どこかに荷物を置いておかないといけないというお客さんがいて、それならコンテナ倉庫のようなものを捜してみます、と言った矢先だったんです。そのお客さんが荷物を出したあとに、倉庫として借りるようになったんです」


 そこからいまの場所に移転したのは、地下だけに湿気が多かったから。現在のコンテナ倉庫は、狭いながらも工夫して整理整頓され、左右の壁に沿って工具や機材がぎっしり詰め込んである。


「道具を下ろして片付けていると夜中までかかることがあります。明かりは、このヘルメットに装着したヘッドライト。これがいちばんですね。向く方向を照らせますから」

 言いながら小さなライトのついたバンドを頭に巻きつけてみせる。この日は、写真撮影があるというので片付けたけれど、ふだんなら足の踏み場もないくらい機材で埋まるそうだ。
 

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── 機材は仕事のジャンルごとに分けているんですか?

「そうです。こちら(入って左手)は、銭湯とかの足場を組んだりするときに使う木の板ですね。梯子に、このへんがお掃除系。庭仕事系は上で。枝を切ったりする長いものとか」


「銭湯の足場」というのは、駒村さんの妻である田中みずきさんがペンキ絵師で、助っ人で銭湯に足場を組むことがあるからだ。そんな説明を受けていると、「この収納いいですね」とカメラマンの山本さんが感心している。目をとめたのは、建築現場で見かける軽量ブロックで、カッター、ドライバーなどの小工具がオブジェのように穴に小分けして差し込まれていた。
 
「このブロックは、小屋の解体をお願いされたときに基礎に使われていたものです」

 倉庫には廃品だったものを「再利用」しているものが多く、扉のところにぶら下げられてある「厄除けの天狗」の飾りもそうだという。
 

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── この大きな木のハンマーは?

「これも大工さんの倉庫を解体したときにいただいたもので、新品で購入したというものはほとんどなくて。足場で使う鉄パイプも中古で譲っていただいたものです。新品だと一揃いで7~8万円くらいですかね。高くて最初は借りていたんですよ。一回借りるとこれぐらいの量だと1万円だったかなぁ。
 借りる場合の難点は、前日にクルマで取りに行かなければいけないこと。終わって返すのとで半日はつぶれてしまい、これは買ったほうがいいなと思ったんです。ただ、そうすると今度は保管場所に困るんですよね」


 独立してからの「足場」の仕事は月に1、2回。保管コストを考えると微妙だという。そもそもどうしてプログラマーをされていた会社を退職後に足場の仕事を選んだのか? 何度も訊かれてきたのだろう。ふぅっと笑みを浮かべた。


「足場屋さんは給料がいいなと思ったんです。たまたま仕事の情報誌を見たら、月60万円いけますよって。いいなと思うでしょう。でもそれは二人組で、一人だと30万。10年くらい前で、トラックの運転手でも当時20万円とかでしたから、これはいいなぁと。高い所も比較的大丈夫ですし」
 
 
 転職を考えていたときに、足場の会社が「近くにあった」のが大きかったという。向こうからやってきたみたいな感じだ。口調ものんびりとしていて、おとぼけに聴こえる。そのへんの職歴は、ネットの「ボクナリスト」というサイトに5年前、駒村さんがロングインタビューされていて詳しい。

 ちょっとだけ要約しておくと、山形大学を目指したものの、茨城大学理学部に入学。祖母からの入学祝でパソコンを買い(30万円したらしい)、それがプログラマーとしての就職につながっていった。就職活動には消極姿勢だったとか。
 就職したIT会社は「下請けの下請け」のような位置づけで、契約している企業に出向して仕事をする。28歳のときに退職。「一人で足場を組んでいる職人さん」を見かけ「これはいけるんじゃないか」と思い、近所の足場屋さんで働くことにしたという。どことなく、中村雅俊の「俺たちの旅」が思い浮かんだ。再放送を含め、ワタシが昔よく見たテレビドラマだった。
 
 駒村さんはその足場屋さんで2年間働き、7、8人の現場を任せてもらえるようになった頃に独立した。「30歳までに独立」と決めていたという。ただ、誤算があった。雇われの身だったときには理解していなかったことだが、仕事に欠かせない足場の資材を揃えるとなると何千万もする。そんな資金はない。すぐにでも始められる「便利屋」を思いついたという。語りが飄々としていて面白いので「ボクナリスト」を読んでみてください。
 

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── 駒村さんは、眼鏡をかけた面立ちが一見優男そうだけど、近くで見ると体格いいですね。

「ああ、いえいえ。もう太っちゃって」

── 何かスポーツしていました?

「小中高と剣道を。母親が、あまりにもわたしがいろんな物事に消極的だったので、心配しまして。すこしでも活動的な人間になってほしいと思ったんでしょうね。何をするにも二番目にいきたがるタイプだったもので」

── いつもだれかの後ろからついていくようなタイプ?

「姉がいて、何事も姉のやっているのを見て覚えていました。よくお下がりを着せられていましたね。だからスキー靴とか、赤いんですよ。なんか僕はそういう存在なのかなぁと(笑)。当時から、ちょっと卑屈になっていました。姉とは三つちがいなんですけどね」

── それで剣道を?

「小学生の4年生のときだったかな。近くの道場に見学に行って、母親から『できそうだよね?』『……と思う』って返事しました。
 やってみたら楽しかったんですが、高校に入ると剣道部に男子は僕ひとりだったんです。練習は女子と一緒で、大会はもちろん男子の大会に出場する。二段まではいったんですが、一度も勝てなかったですね。甘かったんじゃないですかね、練習具合が……(笑)。
 そこは男女共学で40人のクラスに男子は3人から5人。もともと女子高でしたから。でも、面白かったですよ」

 当時を思いだしたのか、浮かべた笑顔がなんともいい。
 
── 便利屋さんの話にもどしますが、忙しくなる曜日とかありますか?

「土日は忙しいですね。というのも、お休みに入ったタイミングで、たとえば本棚を移動させたいので、というご依頼があったりするんですよね。あとは、祝日。みなさんがお休みの日ですね。定休日はナシで、雨が降ったらお休みとか」

── 定休日のない生活なんですね。

「最初は休みだらけだったので、そのときの恐怖心がいまだにぬぐえなくて。明日の仕事がないというのが。それで一年くらいはいろんな営業方法を試してみたんですよ」

── 営業というのは?

「それこそ最初は飛び込み営業でしょう。トラックの上にスピーカーをつけて、『不用品ありませんか』というアレです。細長いチラシをポストに投函して回るのも。これは効果なかったですね」

── 軌道に乗り始めるきっかけみたいなものは?

「あるパソコンショップさんに、『この近くで便利屋始めましたんで、よろしくお願いします』と言って飛び込み営業をしたんです。実際はそんなに近くはなかったんですけど。そのオーナーさんが、『この方法だとあまりお客さんがつかないんじゃないかなぁ』とおっしゃったんです。
 それで、朝いろんな経営者の人たちが集まる場所があるから今度来てみるといいよと言われて、ついていったんです。一年くらい続けて、いろんな人を紹介していただきました。それもあって、いまでも紹介が大半ですね」

 よく便利屋さんのチラシがポストに入っているが、必要を感じる際に躊躇するのは「顔」が見えないことだろう。駒村さんが早々と営業スタイルを「紹介方式」に切り替えたのは正解だったのだろうが、多分に駒村さんのキャラクターがプラスになっていたのかもしれない。