「ウラカタ伝」

ふだん表に出ないけど、面白そうなことをしているひとを呼びとめ、話を聞きました。

『三里塚のイカロス』の映画監督、代島治彦さんに撮影にいたるまでの前史を聞きました

【わにわにinterviewウラカタ伝⑪】
ドキュメンタリー監督
代島治彦さんに聞く(前篇)

 

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インタビュー・文=朝山実
写真撮影 © 山本倫子Yamamoto Noriko

 


三里塚に生きる』につづき新作『三里塚のイカロス』を製作・監督した代島治彦さん。何故「その後の三里塚」を撮り続けるのかを聞いた。

 

「ぼくが三里塚に初めて足を踏み入れたのは、前作の『三里塚に生きる』のとき。小川プロのカメラマンだった大津幸四郎さんに誘われて行ったのが最初です。だから、実際の闘争は間接的にしか知りません。
 1978年の開港阻止の日(3月26日、成田空港建設反対を掲げる支援党派が管制塔を占拠、機器を破壊したため開港は二ヶ月間遅れた事件)は大学の近所の蕎麦屋でテレビのニュースを見ていました」(代島治彦)

 

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 9月9日から渋谷イメージフォーラムで封切りされた『三里塚のイカロス』のドキュメンタリー監督・代島治彦さんは、1958年埼玉県生まれ。1970年前後のベトナム反戦運動を「将来、自分も大学でこういうことをするのか」とぼんやりと眺めていた記憶があるという。しかしその後、早稲田大学に入学してからは学生運動に対して拒絶にちかい感覚をもつようになっていた。72年の連合赤軍事件や内ゲバなどが影響していた。
 代島さんにとって遠い場所だったはずの「三里塚」に深くかかわるようになったのは、国家による農地収奪に叛旗を翻した農民を撮影するため小川紳介三里塚現地に定住したキャメラマン大津幸四郎との出会いによってだった。映画監督・黒木和雄を撮ったTVドキュメンタリーで、初めて仕事をしたころから大津さんは代島さんに「もう一度三里塚に行ってみたい」と話していた。それを受けて出来上がったのが、前作の『三里塚に生きる』だった。

「映画を撮っていて、『どうして代島さんはそんなに三里塚のことに詳しいのか?』とよく聞かれましたね」

 大学時代、代島さんは音楽サークルに属した。ある新左翼党派から「三里塚に行かないか」と誘われたこともあったが、運動へのアレルギーから固辞した。闘争の歴史や空港開港してから後の知識は、何度も現地に足を運ぶ中で蓄積してきたものだ。「ときには、いやなことを聞いてしまうんですよね」ともいう。

 ドキュメンタリー監督の代島治彦さんに話を聞きたいと思ったのは、『三里塚に生きる』(「映画芸術」日本映画ベストテン第3位などに選出、2015年)の続編が近々公開になるということを知ったときだった。前作『三里塚に生きる』は、成田空港の用地を政府が一方的に決定し、農地を強制収用する。「農地死守」を掲げる反対派農民、支援学生たちと、政府・空港公団、機動隊との間で激しい闘争が展開されたものの、1978年5月には滑走路一本という未完成ながらも成田空港は開港。その後、反対同盟は分裂、公団の土地を売り移転する農家が相次ぐなかで、次第にその経緯はメディアには乗らなくなった。しかし細々ながら現在も反対闘争を続けるひとたちが存在することを映したのが『三里塚に生きる』だった。

 その続編となる『三里塚のイカロス』は前作とは対となる作品で、支援に馳せ参じたかつての若者たちの「その後」を描いた物語である。

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「ウラカタ伝」はライター個人のブログで、この映画にひかれたのは「その後」をテーマにしていたからだった。じつは聞き手も三里塚には20代のはじめにしばらくいたことがある。
 当時は色とりどりの党派のヘルメット集団だけでなく、ヘルメットを被らない労働組合住民運動のひとたちも大勢、現地の反対集会に参加し、公園にはヤキソバの露店商も軒を並ぶくらいに人でごった返していた。
 滞在した合宿所にはいろんな人たちがいた。他人の家に寝泊まりすることなどした経験がなく、何十人もの集団生活をよくもつづけられたものだと不思議なのだが。当時は「闘争をする」という意気込みのひとはもちろん、「自分探し」に通じる若者もけっこういて、いま思えば自分もそのひとりだったのだとおもう。新左翼党派とは距離をとった市民団体が運営する「合宿所」の食堂で、ルポライターの鎌田慧さんが味噌汁の大鍋を覗き込んでいたのを覚えている。

「勤めをやめてバイクで旅をしている途中」に立ち寄ったという「大学に居場所がなくて」というものもいて、40年も前のことだし名前は忘れてしまったものの、何人かの顔はいまも脳裏にある。懐かしさというのでもないが、映画が前作のさらに「その後」を描いたものだというのを知り公開前から気になっていた。

 映画に話を戻すと、登場するのは10人。いまも運動に関わっている老人活動家。かつて現地に常駐していた元活動家たち。管制塔占拠に関わったもの。土地を空港公団に売り移転した農民、農家の青年と結婚し、家族で後に移転することになる元活動家の女性たち。
 さらには反対派や支援からは「敵役」とみなされていた空港公団職員で、用地買収を担当した人物。ひとりを除き、いまは三里塚とは距離のあるひとたちだ。

 映画の冒頭、反対運動を指導した農民運動家・加瀬勉さんの自宅でのインタビュー、80代の加瀬さんが、反対運動に中核派など三派全学連の学生が参加する経緯を語っている。彼の背後には、若き日の周恩来の肖像が掛かっている。このドキュメンタリーで、加瀬さんの存在が異色に思えるのは、その語りに迷いを感じさせないことだ。
 理由は、彼ひとりがいまだ闘争の「現役」だからだろう。しかし、彼もまたこの映画の「主人公のひとり」だと納得するのは、一通り闘争について話しおえた後、プライベートな領域に話は逸れていく。結婚することなく独身を通してきたこと、老母の介護に追われる日々の身辺話を語る。老いて尚唾をとばす勢いの壮健な男が、とつぜん気弱な男の顔になっていく。

「加瀬勉さんは長男なんです。自分は闘争につっこんでしまって、結婚もしないで両親に迷惑をかけてきた。父親は早くに亡くなり、母親が寝たきり状態となった。ある日、加瀬さんが気づいたら、ベッドのまわりは糞まみれで、母親のからだを洗った。『男で、独身で、かあちゃんの身体を俺が洗ってやったんだ』と話をしはじめる。『自分は生まれて初めて女の身体を洗った』と独白するわけです。
 なぜ加瀬さんが三里塚の闘争をつづけてきたかというと、『それは命が大事だと思ってきたからだ』という。『だから俺は、かあちゃんの身体を洗うんだ』自分に言い聞かせていたという。
 見てもらったとおり、これは三里塚闘争の話の流れ、映画の流れとは全然関係なく話し出したことで。その前のシーンでは、いまでも反対闘争をつづけ、土地を売らないでいる家の上空を飛行機が轟音を響かせて飛んでいく。そこに編集で『空港ハンタイ‼』という闘争全盛期のデモの声をインサートしています。これは僕の演出ですが、そのあとに加瀬さんの話になっていくんですよね」

──雄弁に闘争の歴史と意味について語ってきた老人が顔を曇らせ、頬の張りがとけ、困惑したひとりの老人になる。身を乗り出して見てしまいました。親を介護するという体験は、反対闘争よりもさらにきついものにも見えてくる。その加瀬さんを映画の冒頭に置いて、そこからかつての若者たち一人ひとりの息の長いインタビューがつらなっていきますね。

「前作の『三里塚に生きる』は、出てくるひとたちはみんな自分たちが国家権力に対して闘ったことに対して、あれは意味があることだったんだという自負がある。闘わざるをえなかったんだという。よくやったという。
 しかし、今回のひとたちは複雑なんです。とくに支援で入ったひとたちというのは、言ってみれば、行かなくともよかったわけですよ。行かざるをえない気持ちになって入ったひとたち。動機はそれぞれだけど。しかも、早くに運動から脱落するのではなくて、この映画に登場するひとたちは長く闘争に関わりつづけた末に離れていく。
 前の『三里塚に生きる』のパンフレットにぼくの短い原稿を載せていますが、『国を相手に闘った農民も、闘争をしたことで深く傷つき、かなしんでいる。悲しい出来事がいっぱいあった。それを乗り越え、いまを生きる。かなしみをちゃんと噛しめるからこそ楽しみ、嬉しいこと、幸せがわかる』そういう趣旨のことを書きました。
 でも、今度の映画は『絶望と希望』の映画なんですよね。みんな悩んで、一度は絶望の淵に立つ。しかし、淵から地獄に飛び降りるのではなく、もう一度希望に向かって浮上し、生きようとする。ぼくは、絶望したことで、新しい希望を見つけたひとを撮った」

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──加瀬さんのシーンは、映画としては十分くらいだと思うんですが、どれぐらいの時間撮影されていたんですか。

「ドキュメンタリーというのは、この部分を聞き出させれば映画にはなると想像できても、使わないだろう前後を聞こうとする。加瀬勉さんの話も、お母さんの介護の話なんてポイントを絞り込んでいたら、これはぜったい撮れていない。あの日は昼間から始めて、夜遅くなってからもまだ話を聞いていました。
 加瀬さんが活動をつづけているおかけで、近所のコンビニのある交差点には『テロを撲滅しよう!』といった警察の看板が立つようになったという話だとか、日ごろの近所付き合いや農作業なんかの話をして、もう話は尽きたかなというときに突然、母親の話をはじめた」

──なるほど。これが撮ればいいと決めていたら、加瀬さんも個人的な介護のことなど話したりはしなかったんでしょうね。カメラは、どのタイミングでまわされるんでしょうか?

「撮ってください、というふうにぼくがカメラマンに言ったことは一回もなかった。今回は加藤孝信という、前作の大津幸四郎さんの撮影助手をしたことのあるカメラマンで、彼はいつも空気を読んで、なんとなく撮りはじめていた。撮影のときはいつもふたりで、音声はぼくが担当し、ピンマイクをつけたりとか、ガンマイクを持ったりしていました。
 よく、ぼくがフライングをして、カメラの準備が出来ていないのに話しだして、あわててカメラを回すということもありました。冒頭の『加瀬さんはここで生まれたんですか?』とぼくが聞くシーン。あれはもうギリギリ、カメラが追いついたんですよね。見てもらったらわかると思うんだけど、最初の場面はカメラがすこし揺れている。あの前に、もうぼくは語りかけていたんですよ。もう何を話していたのか忘れてしまったけど」

──登場するひとたちは、カメラを気にされずに話されている印象がありました。それもカメラマンの撮り方によるんでしようか。

「たとえば、最後に出てくる加藤秀子さんのところでお茶を出されて、ぼくが柿を食べはじめる。あれなんかは、お茶飲み話をするんだなというところで、カメラマンが勝手に拾い、それをぼくは編集で使っています」

──その加藤さんを含め、気になったのが、女性たちに話を聞くところ。ひとりで農作業をしているところと、屋内でテーブル越しに話す場面。別の場所なのに、インタビューの内容はつながっているんですね。あれは同じ質問をされているんでしょうか?

「まったく同じ質問をするのは失礼だから、それはしていない。だけど、聞き方を変えて同じことを聞いています。たしかに指摘されたように前田深雪さんのところは外で撮った場面、屋内で撮った場面を交互につないでいます」

──それは?

「いちばん編集が難しかったのが前田深雪さんのシーンで、彼女はしゃべっている映像しかなかった。いまの実生活を映そうとしたけれど、撮れなかった。というのは、彼女はいま介護のヘルパーさんをやっている。ほんとうは彼女が働いているところを撮りたかったんです。だけど、相手のこともあるので、と言われてあきらめました。
 だから、深雪さんはしゃべっている映像だけです。それでも飽きさせずに見せるにはどうしたらいいか。延々と同じフレームだときついので、外と内というふうに展開していったということはあります」

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──映画の中で、いちばん印象に残ったのはいま名前があがった女性たちです。支援の学生として三里塚にやって来て、農家の青年と出会い結婚した。映画には三人の女性が登場しています。
 結婚して「嫁」となり、「家」単位で反対闘争をしているときは外に大きな敵が存在することで、農家という封建的な家庭内の問題にもフタをすることはできていたのでしょうけど。公団に農地を売って移転してしまうと、「農家の嫁」としての生活だけがつづいていく。
 彼女たちは、有名大学の女学生で、農業の経験もなかった。さらに党派の活動に加わったりするからには進歩的な考えのひとたちにちがいない。闘争から離れ「農家の嫁」でしかなくなったときに、彼女たちの苦悶が始まったことはインタビューから感じとれます。それがこの映画の一番の核だと思いました。
 とくに先ほど名前の出た加藤さんが印象に残りました。インタビューは移転後のご自宅と、農作業をしている畑の二箇所でされていますね。農作業をされている畑での撮影は、代島さんが要望されたのですか?

「意図して、畑で撮ろうとしたというわけではなくて、訪ねて行くといつもそこにいる。彼女に限らず、移転した農家で農作業をしているのは女性たちで、ダンナは手伝わない。『いくらにもならないんだから、こんなのもうやめたら』とダンナは言うわけ。要するに土地を売ったことで、働かなくともやっていけるだけのお金はあるわけですよ。それでダンナさんは、ハーレーダビットソンを乗り回すのが趣味で、アメリカまで出かけたりする。
 でも、加藤秀子さんは『孫も出来て、いまも働くのが生きがいだから』と、ああやって農作業をしている。ダンナさんは反対派の農家の長男で闘争していたんだけれども、97年に土地を公団に売却する。秀子さんは中核派にいたひとで、一家で移転するとなったときにどうするかを問われ、『家族だから一緒に行く』という決断をする。
 ダンナさんも冷たいひとではなくて、やさしいひとなんだけど、秀子さんが農業をつづける理由がわからない。『お金はあるんだから、もう百姓なんかやめろ』と言うわけです。
 秀子さんは、いまもひとりで農業を続けていて、有機農業の野菜とかを近所の農協とかに、ナスが五個150円とかで出すんですよ。一日4000円とか5000円くらいの収入にしかならないんだけど。それをつづけることで、秀子さんは自分を保っているわけですよね」

──秀子さんのダンナさんにも話を聞かれたのですか。

「映画には出てこないけど、ダンナさんにも話を聞いています。闘争をやってきたのは親がやっているからという面もあって、『自分は親とはちがう生き方もしたかった』という。そこにお金が入ってきたものだから、働かずとも豊かな生活を享受できてしまう。だけど秀子さんは、それができないんです」

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──彼女に胸を打たれたのは、映画を観ながら自分の母親のことを思い出したからなんですよね。すこし個人的なことを話すと、ウチは都市近郊の兼業農家で、父親は工場に勤め、毎日母親はひとりで桃畑や苺や稲作をしていた。田舎の村だったので、田植えと稲刈りのときには近所の人たちが集まって手伝ってくれるものの、日ごろは夜明け前に出ていって、ほとんどひとりで農作をしていた。
 よくある話で、高度成長期の都市開発で「土地を売ってくれ」という話が舞い込むと、男衆が「売る」と決めてしまう。話し合い場にいるのは男ばかり。「女だから」ということで母親は加わることすらできない。田んぼを維持していたのは彼女なのに。そういうものすごく個人的な記憶が再生されたのと、しかもワタシは母親に同情しながらも何もできずにいた。というか、ろくに農作業の手伝いもしなかった。なのに三里塚に出かけていってヘッピリ腰でゴボウ抜きの援農とかしていた。矛盾しまくりなんですが、そういう昔の私的な出来事を加藤さんたちに重ねて見てしまったんですね。

「前の『三里塚に生きる』と今回の映画がちがうのは、アサヤマさんがいま話されたように、それぞれに観たひとが自分にひきつけて見るところが多いところなんでしょうね。
 前作は、距離を置いて、自分とは生きる世界がちがう、『空港に反対していた農民の話』だというふうに見ることができる。ところが今度の映画は、ふつうに生きてきて、あることから関心をもち、巻き込まれるようにしてこの土地にやってきた若者たちの話。とくに空港反対闘争に関心がなかったとしても、映画で描かれる、生きていくなかで避けがたく味わうかなしみ、苦悶みたいなところでは広く重なるところがあるんでしょうね。
 じつは、パンフレットにも書きましたが、この映画をつくるきっかけは、あるひとりの女性の死だったんですよね。それで『支援妻』と呼ばれるひとたちに10人以上会いました。カメラ無しだと語ってはくれるんだけど、カメラの前では難しい。だから加藤秀子さんはよく出てくれたと思います。『この話は封印です』と言いながら、これまで誰にもしゃべってこなかった胸のうちを語っている」

──彼女が逡巡されたのは、映像からも伝わってきます。よく承諾されたなと思いました。

「前日に加藤さんの家にうかがったときに、ダンナさんとふたりからいろんな話を聞いたあと、ダンナさんが『ヒデコ、この映画に出ちゃだめだよ』と言うのを聞いて、ぼくはダメかなと思った。でも秀子さんはダンナを説得するから『代島さん、一晩だけ待って欲しい』。翌日、ダンナを説得したから撮りに来てくださいと言われた。
 撮影中も秀子さんの中では、封印したいという気持ちと、これは伝えておきたいという。両方のおもいがあって、それでもしゃべってくれたんだと思います」

──なるほど、そういう背景があったのですか。

「もうひとりの秋葉恵美子さんのところで、ダンナさんが軽自動車から僕の話に答える場面があったでしょう。腕にきらきら光っているのはロレックスで、何百万と言ったかな。土地を売った代替地に田んぼをもらったんだけど、耕作は主にダンナの義光さんが担当していて、コシヒカリを育てている。ただ、使っている大型のコンバインは冷房の空調付きで一台1000万円といったかな。それで、農閑期にはひとりでモンゴルに旅をするのが毎年恒例の楽しみになっているらしい。義光さんは『ゲルに寝て旅をするのは楽しいよ』って言うんだけど、そこには恵美子さんはぜったいついて行かない」

──それ、なんかわかります。ウチも田んぼを売った跡地にステーキが売りのファミリーレストランが出来て、父親は散歩がてらそこによく出かけていく。夏に親戚が集まったときに「みんで行こう」と父が誘うんだけど、母だけ行こうとはしなかったから。

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「反対農家の青年と結婚した支援の女子学生たちは20人くらいいたんだけど。いまも現地にとどまっているのは10人くらい。あとは離婚したりで。『支援妻』といわれるひとたちにもステージがあって、子供が生まれ、子育てをしながら家単位で反対運動をやっていた時期があり、それから子供を育て終わったころに、移転の話が持ち上がってくる。
 今回、ぼくが映画を撮る動機にもなった自殺しちゃった女性は、移転後にどうやったら自分のバランスをとればいいのか相当に悩んだらしい。
 彼女は、横堀要塞戦のとき(78年の開港阻止闘争の際、反対同盟と支援党派が空港近くに要塞を築いて妨害活動を行った)要塞の中にたてこもっていたひとで、プロレタリア青年同盟という党派の女性リーダーだった。闘士タイプのひとで、辺田の農家の青年と結婚したんだけど、2006年に公団に土地を売って移転した後にうつ病になったりしていたらしく、13年に自殺してしまったんですね。
 ぼくは、彼女がどんな気持ちで三里塚へ来たのか。どうして反対農家に嫁入りしたのか。なぜ自殺したのか。もう本人に聞くことのできないことを知りたいと思った。それがこの映画の発端だったんですね」

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──映画では、これまで表に出てこなかった女性たちの声を拾いあげるということをされてきたわけですが、映画に出てくる三人以外にも取材では会われている。

「十人ぐらいのひとに聞いて、出てもらった三人のほかに、あと二人有力なひとがいました。ひとりは、木の根の用地内に住んでいたひとで、やはり支援から奥さんになったひとですが、ダンナさんが土地を売って出ようというのを何度も引き止め、反対運動をつづけていた。移転したのは98年。木の根の集落が国側の謝罪を受け入れ和解したことで、集団移転を決めたときです。
 そこまでは挫けそうになる夫を励ましてなんとかしていたんだけど、移転後に彼女は脳梗塞で倒れ、いまは車椅子生活をしている。その彼女は13年に自殺した先ほどの女性と親しかったんですよね。だけど、自分が移転して出ていくときに、その女性から『あなたは負けた』と非難されたそうなんです。なんとかして引きとめたかったんでしょうね。
 でも、木の根は用地内で、騒音地区の辺田とは条件もちがう。それで06年に、あとから自殺した女性が同じ西三里塚エリアに移転してくるんだけど、そのときには以前のようには、ふたりは親しくはできなかった。
『もうちょっと自分のほうから歩み寄って、お互い様だからみたいなことを言っていれば彼女も自殺することはなかったんじゃないか』と先に移転した女性は悔やんでいた。そういう話は、カメラ無しならば聞けました。
 いま、その車椅子生活になった彼女の面倒をダンナさんと家族が甲斐甲斐しく看ている。家族の風景がよかったんですよね。
 もうひとりは、15年に空港公団に土地を売った東峰の農民の元妻。彼女は1971年にウーマンリブ運動のリーダーだった田中美津さんたちと三里塚にやって来たひとで、田中美津さんが『こんな男性中心主義のところにはいられない』と出ていったあとも居残り、農家の男性と結婚したひとなんです。
 ダンナさんは、稲作を合鴨農法でやったり、三里塚有機農法の草分けのひとりなんだけど、土地を売る、売らないで彼女は離婚しちゃった。でも、その後も三里塚に暮らし農業をつづけている。彼女もカメラ無しならば話は聞けたんだけど……」

──たとえば、そのひとたちに顔にボカシを入れるとかして登場してもらうということは考えなかったんですか?

「ボカシを入れて撮るとかいうことなら、撮らないほうがいいですよね」

──映画を通して伝えたいものは「情報」ではないということですか。

「そうですね。たとえば、映画に出てくる中川さんという管制塔を占拠したひとがいて、彼が刑期を終え、奥さんと再会する話を、三里塚まで足を運んでもらって、田んぼのところで撮ったんです。シーンとしては長いんですが、でも中川さんがしゃべっていることじたいは『うーん』『あー』とか言っているだけなんですよね(笑)」

──そうでしたね(笑)。妻への伝えきれない思いが伝わるシーンでした。

「あれは、中川さんの語る言葉ではなくて、表情に意味がある。表情から伝わってくるものがあるんですよね。映画は、しゃべっていない時間、そのひとの姿勢や瞬きの瞬間も含めて見ていくわけです。ぼくは、そこが映像の面白さだと思う」

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インタビューは代島さんの「スコブル工房」にておこないました。

つづく☞ココ次回は元中核派三里塚現地責任者にカメラを向けた背景を聞きます。

映画公式サイト👇

映画上映館情報👉三里塚のイカロス | シアター・イメージフォーラム

 

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