「ウラカタ伝」

ふだん表に出ないけど、面白そうなことをしているひとを呼びとめ、話を聞きました。

闘争という祭りのあとを彼らはどう生きたのか。ドキュメンタリー監督に聞く。

【わにわにinterviewウラカタ伝⑪】
ドキュメンタリー監督
代島治彦さんに聞く(後編)

 

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インタビュー・文=朝山実
写真撮影 © 山本倫子Yamamoto Noriko

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  前回につつき、空港反対闘争に駆けつけた若者たちの「その後」のドキュメンタリー映画三里塚のイカロス』の監督・代島治彦さん(58歳)に製作舞台裏を聞いた。


「岸さんというのは結局、感情を正直に表にだすひとではなかった。最後のシーンで、ぼくが『岸さんの失敗ということになるんですよね』と質したときにも、一瞬困った質問だ、どう答えようかという戸惑いの表情を見せますが、すぐに冷静な顔に戻り、『完全にそういうことだと思います』ときっぱり答えています」(代島さん)

 

三里塚のイカロス』には、これまで表に出て話すということをしてこなかった人たちが登場する。支援でやってきて反対同盟の青年と結婚した「支援妻」たち。管制塔占拠事件(1978年、管制塔を破壊し開港を遅らせた)に加わった党派の活動家や、空港公団で用地買収の交渉の元責任者。そして、映画のはじまりと終わりにインタビューを受けている岸宏一さん。1981年から25年間、中核派の現地闘争本部の責任者をつとめていた人物だ。

 

──試写の会場でしたが、映写技師の方が上映後の質疑応答で、代島さんに「あそこでしつこく食いさがって質問しなかったら、彼は失敗だと言わなかったのでは?」と聞かれて、「そうだと思う」と答えられていましたね。技師さんは「亡くなる前に、彼はあの一言を言えてよかったんじゃないか」とも言っておられていましたが。

 

「たしかに、そうだと思います。今回は半年間、編集作業をしていたんですが、一本の映画にするには、編集の中で登場する10人の記憶をこねくりまわして、つなげていくわけです。一人ひとりの記憶が、丸太のように10本あるとするでしょう。それを切り込んだり、削ったりしながら、ひとつの建造物に仕上げていく。その作業の中で、岸さんの部分は新左翼の中心的活動家を象徴するものになったのかなと思うんです」

 

──さきほどの年配の映写技師の方が、岸さんについて批判的だったのは、開港後に反対同盟が揺らいでいくなかで、空港公団と極秘に和解交渉をもった同盟幹部の農地に釘を撒くなどの陰湿な威嚇行為をしたこと、用地買収交渉を担当していた空港公団職員宅を爆破したことを暗に認めている。戦いの中でのこととはいえ、その非情さ。ほかにも三里塚で主導権争いをしていた第四インターの党員に対して、岸さんが所属していた中核派が全国でテロを行った。岸さん自身は三里塚にいて、そのことは事前に知らされていなかったと語られていたけれども、組織としてそこまでやるのかということをやっている。
 ただ、それでもカメラの前で話す岸さん個人には誠実さがうかがえ、惹かれるところがありました。代島さんが、岸さんに映画に出てもらおうと考えた理由、とりわけ岸さんが、かつて空港反対闘争のシンボルだった建物の屋上へと登っていき、インタビューにこたえる。印象的なあのシーンをラストカットに選ばれた経緯を聞かせてもらえますか?

「岸さんにも失敗の責任はありますよね、とぼくが訊ねるシーンですね。あれは意図して撮影していたわけではなかったけれど、編集していて、これはラストにくるべきものだと思った。
 爆音を響かせた飛行機が、かつて反対派が使っていた岩山の要塞の上空を通過する。岸さんは、錆びついた外階段を足早に上がっていく。それを後ろからカメラが追いかけていくんだけど、岸さんは上空を飛ぶ飛行機を見上げながら、しばらく黙っている。
 岸さんは、何のために闘ってきたのか。しゃべろうとして轟音に、黙ってしまう。あの場面にすべてが集約されていると思った」

 

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「ただし、あらかじめ岸さんで終わろうというふうに考えていたわけではなくて。編集していて、これしかないなと思ったということです。あそこを登るのも、ぼくが『岸さん、鉄塔のあったところに行きましょうか?』と言ったからなんだけど、着くなりズンズンズンズンひとりで上がっていく。『危ないねぇ、怖いねぇ』とか言いながら。後ろからカメラマンも、カメラを揺らしながら必死に追いかけていった」

 

──階段といっても長年放置されていたために錆びてボロボロで、抜け落ちそうになっている。剥がれ落ちそうな隙間から、真下の景色がみえていました。

 

「そう。本当に危なかった(笑)。
 岸さんは『この要塞は昔会合があるたび来ていた』とか言うわけ。最初は反対同盟が使い、同盟が分裂して、しばらくしてから中核派を中心とする北原派の支援グループが月に一回くらいあそこで会合をもっていた。そういうこともあって岸さんも懐かしかったんでしょう。あの日は一泊二日で三里塚に行ったんですが、あの場面を撮ったのは一日目の夕方でした。

 宿はね、三里塚交差点の脇にある大竹屋旅館、『三里塚に生きる』のときから、ショートスティのときはそこを常宿にしていました。一泊にしたのは、夜にカメラはなしで話をじっくり聞いたうえで、翌日また撮影というボリュームを考えていた。
 それで一日目は、東峰部落でいまも土地を売らずに農業をつづけている農家の近くの、らっきょう工場の休憩場所、飛行機がブンブン飛ぶ真下で岸さんに話を聞いている。それから、岩山に場所を移動しました。

 翌朝は、当時よく反対集会が開かれていた三里塚の第一公園と第二公園へ散歩に行って、話を聞いて、それから午後は辺田部落へ。岸さんは、つい数年前まで頑張って反対していたそこの農家と仲がよかったから足を伸ばしてみたんです。
 その家のお嫁さんは中核派のシンパだったひとで、ダンナさんが急になくなり、嫁に入った彼女と娘さんだけが残された。岸さんは、その農家に援農の支援を送っていたこともあって、その場所がいまどうなっているか気にしていた。だから、そこに行こうと」

 

──映画に出てくる岸さんは、話し方は穏やかで常に冷静。「職業革命家」を選んでいなかったとしたら、官庁の役人や大手企業の実直な管理職に収まっていたのではないか。それも実直なタイプ。虚言を弄したり、他人に責任をなすりつけたりすることはないだろう。映像からそんな印象を抱きました。
 これは最初にする質問だったのですが、そもそもなぜ岸さんを取材しようとされたのですか?

 

「前作の『三里塚に生きる』のパンフレットに年表を付けているんですが、ある大学で上映会をしてもらったときに元第四インターだったひとから、年表のこの部分は間違っていると指摘されたことがありました。
1984年 新左翼党派による武装闘争、党派間の内ゲバがはじまる。』という一行を指して、これは中核派による第四インターへの襲撃のことですよね。あれは内ゲバではなく、一方的なテロだった。あのとき第四インターは組織として内ゲバには反対の立場で、だから一切の反撃をしなかった。ちゃんと調べてくれ、と言う。
 たしかに、そうなんですね。そういうことがあり、後に中核派をやめた岸さんが書いた本を読むと、三里塚での闘争方針に誤りがあった、第四インターへのテロは間違いだったというふうなことが書いてあった」

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 映画の中で、中核派による襲撃で、第四インター側に、頭蓋骨を砕かれ重体になったものや、足を切断するにいたったものが出たことがテロップで紹介されている。開港後の運動方針をめぐり反対同盟が分裂した翌1984年の1 月と7月の出来事だ。

 

「岸さんが書いた本の存在を教えてもらったのは、前作の映画のあと『御料牧場で花見があるから来ない?』と農家のひとたちに誘われて遊びに行っていたときに、そこにいたひとから教えてもらった。『中核派の現闘の元責任者が書いたんだけど、謝っているようで具体的なことは何も言っていない。何が間違いなのかを示さないと、謝ったことにはならない』と怒り口調だった。
 それから本を読みましたが、岸さんは過去の行いについて間違いだったと書いてはいる。だけど、ぼくは自身の後悔の念として、心の底から過ちを認めているようには読めなかった。『三里塚のイカロス』を製作しようと決めて、外から支援にやってきた元若者たちに話を聞いて、登場人物を選んでいる最中だったんです。
 それで岸さんに連絡をとろうとして、まず出版社に電話した。すぐに直接連絡がつき、岸さんが内容を聞きたいというので、ぼくの家に来てもらいました。『どんな映画がつくりたいのか』と問われ、岸さんが三里塚をどう闘い、いまはどう思っているのか聞きたいと伝えました。

 一ヶ月ぐらい猶予をくれ。即答はできないからということだった。
 というのも岸さんは、中核派の内情を暴露する本を出したことをきっかけに、それまで勤めていた小さな出版社をやめ、別の会社で働いていた。同時に、本を出したことで中核派の機関紙で『岸は三里塚にいた頃からスパイだった』と攻撃されていた。

 岸さんが言うには、現在勤めている会社の社長には過去の経歴は伝えているけれども、社員は知らない。ちゃんと社長に話さななければならない。それから、元中核派の同志にも相談しなければいけないということだった。
 あとは、ご家族。とくに本を書くことにも反対だった奥さんにちゃんと話さなければならない、と。でも、一ヶ月くらいして、『すべてのハードルを越えました』と連絡が来た。それが出てもらうまでの経緯ですね」

 

──映画に出る判断をするまでの経緯から、岸さんというひとの輪郭が見えてきますね。

 

「慎重で、誠実というか。それで岸さんに出てもらうことになった。
 テロを受けた側の第四インターにいた平田さんや吉田さんに、映画に出てもらうことはすでに決まっていました。もうひとり、空港公団で用地買収交渉の責任者だった前田伸夫さんにも出てもらうことが決まっていた。映画にもこの話は出てきますが、中核派は前田さんが公団を辞めてから爆弾を仕掛けている。
 やった側とやられた側とが映画に登場し、岸さんには『やった側』の証言を語ってほしい。それが岸さんをこの映画に引っ張り込む、最大の意味だと思いました。もちろん岸さんには、事前にこの映画にはこういうひとたちも出ます、と伝えています」

 

──それも岸さんは了解された?

 

「岸さんには、すべて了解してもらいました。
 もうひとつ、これは映画には出てきませんが、1980年代に千葉県の土地収用委員会の委員長をされていた、弁護士のOさんが重傷を負う事件があった。
 空港用地を強制収用する手続きとして、代執行の申請を裁判所にする権限をもつ委員会の委員長を中核派が襲い、下半身不随にした。見せしめだったんでしょうね。その後、他の委員全員に脅迫電話をかけて委員をやめるように脅迫した。結果、収用委員会は解散し、強制収用の手続きがとれなくなるという事件がありました。
 岸さんに、収用委員会の件はどう思っているのかと聞いたら、『あれは、いい作戦だったと考えている。今後、収用委員会を襲えば他の場所でも収用不能となるということを実践したんだ』と言う。前田さん宅を爆破したのと同じように正当な戦いだ、と。

 堂々と言い切るところは、すごいなぁと思いました。

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 そのあとOさんは車椅子生活になり、02年だったかな、海で入水自殺をした。直接の理由はわかりませんけど。その話に衝撃を受けていたので、『Oさんは一方的な被害者じゃないですか。たまたま収用委員会の委員長という立場についただけじゃないでいすか』と言うと、岸さんも『彼は人権派でいい弁護士だった』という。それでも、彼らが考える正義を達成するためには一般市民も敵と味方に選別して、敵だとしたテロさえ正当化する。

 Oさんの件については、襲撃を受けたときに一緒にいた弁護士さんに連絡をとっています。Oさんのご家族がいまどう思っているのか、同僚の弁護士としても、どう思っているのか聞きたいとお願いしましたが、『Oさんの家族は憤りながらも忘れたがっているし、自分もどういう危険があるかわからないから話したくない』と断られました。
 
岸さんには、そうしたこと全部をぶつけて、三里塚との関わりを話してもらおうと思ったんです」

 
 岸さんが三里塚の現地闘争本部の責任者として赴任するのは、空港開港後の1981年だった。当時の中核派内部では労働組合三里塚、いずれを軸とするかの路線論争があり、彼は労働組合重視の立場にあったという。しかし、党派のトップから直々に三里塚の立て直しを求められ断りきれずに赴いたという経緯があった。管制塔占拠事件以来、三里塚闘争で支持を広めていた第四インターから主導権を奪回する切り札と期待されてのことだったらしい。

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「岸さんは、じつはこの映画が完成した後の今年の3 月に山で遭難したんです。趣味だったらしいんだけど、ひとりで雪山にスキーに出かけたまま、いまも遺体は見つかっていません。

 岸さんのお別れ会に出たときに、当時団結小屋にいたというひとたちが何人か来ていて、岸さんのことを聞くと、彼が来てから団結小屋の境遇がよくなったということを話していた。女性たちが『お風呂やトイレが男女別になったりすることで、あのときはうれしかった』それでやる気が高まったんだという。岸さんは、感情を表に出さないひとだけど、面倒見がいいというか、リーダーシップのあるひとで、細かなところに目配りができるひとでもあったみたいですね。

 当時、中核派の現闘には50人くらいが常駐していて、運転免許を持ってクルマを運転していると、いつ警察に捕まるかわからない。だから幹部は、免許は持ってはいけないことになっていたという。それでどこに行くにも運転手付きで、しかも岸さんは援農に入ったことがないと言っていました。農家に行くのは、麻雀したりしながら関係を維持し、闘争の相談をするのが役割だった、と。自分は慶応のシティーボーイで、農作業なんか似合わないから三里塚にへだけは行きたくなかったんだよ、と冗談めかして打ち明けられたこともありましたね(笑)」

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「党から、岸さんは三年で三里塚の勢力を回復しろと言われたらしいんだけれども、着任してから運動は退潮していくいっぽうで、反対同盟も北原派と熱田派に分裂してしまう。1983年3月8日のサンパチ分裂といわれていますが。その後も現地の責任者をつづけ、06年に中核派が中央と関西に分裂したときに中核派をやめるんだけど、それまでの25年間、岸さんはずっと三里塚に常駐していた。

 中核派をやめた後、2014年までは都内の出版社で主にコンピュータを使って版組みをする仕事をしていたそうです。息子さんはアメリカでCGのデザイナーをしていて、フォトショップとかの使い方は息子から教わったと言っていました。

 まわりのひとの話を聞いていくと、理念派ではなく、彼は細かな作戦を実践していく参謀タイプだったみたいなんですね」

 
──ところで、これも最初に聞いておく質問だったのですが、『三里塚のイカロス』には、よくこういうひとをたちをカメラの前に集めたなと驚かされました。人選過程について教えてもらえますか。

「誰をというのは、ほぼ偶然です。
 まず管制塔占拠関係では、元第四インターの平田誠剛さんに声をかけました。平田さんが書いた『もぐら道3000日 三里塚・管制塔被告獄中の詩』と『管制塔ただいま、占拠中! 被告たちの三里塚3・26闘争』の2冊の本を読んだら面白かった。それで会ってみたら、震災後に福島で仮設の人たちの支援の活動をしているというので、そういう現在の姿も撮れたらいいなというのもありました。

 同じ管制塔グループでプロ青(プロレタリア青年同盟)の中川憲一さんは、管制塔占拠で捕まった原勲さんというひとがいて、拘禁ノイローゼで刑期を終えた出獄後に自殺した。その原さんの命日には毎年プロ青のひとたちが集まるという。
 
いまも立っている、横堀の鉄塔の下に分骨したお墓があり、ぼくもその集まりに参加したときに中川さんと知り合いました。中川さんは管制塔グループでは最年長。大学時代は体育会系で、新左翼をやっつけていたというんですよ。面白いひとがいるなぁと」

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──予告編の冒頭に代島さんたちが撮影していると、若い機動隊員がひとり近づいてきて何をしているのかと問われ、いまドキュメンタリー映画の撮影中で、昔ここであった闘争について説明しているんです、と中川さんが応える。
 それだけでなく、さらにその機動隊員に中川さんが『あなたは何故ここで空港の警備をしているのか話してもらえませんか?』と逆質問し始める。隊員がいまは勤務中だからと立ち去っていく背中を見て、『もうすこし、あれすればよかったですか』とカメラに向かって語りかける。あそこはコミカルというか、激しい闘争があった時代との落差がよく表われていて、いい場面でした。

 

「そう、面白いひとなんですよ、中川さんは(笑)。もうひとり、吉田義朗さんは、まだ高校生のときに強制代執行のニュースを見ていて、いてもたってもいられずに京都から駆けつけたという。吉田さんは、平田さんが三里塚に連れてきた。世話になった加瀬勉さんのところに立ち寄って、そのあと第四インターの団結小屋があった朝倉へ行きました」

 

 映画に出てくる元活動家たちの、管制塔を占拠するまでの作戦秘話を聞いていると、子供の頃に大ヒットしていた映画『大脱走』のシーンが思い出された。スティーヴ・マックイーンたち連合国軍兵士が、ドイツ軍の捕虜収容所から地下トンネルを掘って集団脱走をはかる痛快な戦争映画だった。

 

──ふたりの話が活劇的でドラマっぽいなぁと思って見ていると、カメラが引いて、吉田さんの全身を映す。車椅子だというのが、途中でわかります。18歳のときに支援でトンネル掘りをしていて落盤事故にあったのだという。しかし持ち前なのか表情は時間が経っているせいか、明るかった。関西弁の庶民っぽさもあって、ある意味岸さんとは対照的でした。
 

「トンネルを掘っているときによく吉田さんが口にしていた言葉があって、平田さんが言わせようとするんだけど、照れて言えない。結局、カメラが頭上を通過する飛行機へ動いた瞬間に言うんだよね。『このトンネルは、ベトナムに通じている』。そういう気持ちで穴を掘っていたら、死にかけた、と。
 吉田さんは18歳から車椅子生活になるんだけど、前向きなひとで、その後にカヌーを始めて、障害者カヌーの草分けとなり、いまは指導者をしている。いろんな人生があるんだなぁと思います」

 

──出てくるひとたちは、もうそれぞれ映画を観られているのでしょうか。内容的に何か言われたりしましたか?

 

「試写の案内を出し、DVDも送ったので見てもらえていると思います」

 

──現在を語るというのは精細なテーマでもあり、完成した映画を観て、出られたひとから、もしも否定的な意見が出たり、削除の申し入れがあった場合、代島さんはどのように対処されるのでしょうか?

 

「それぞれ、お願いする時に編集はすべてこちらに任せてくださいということで撮っています。だから『映画にしてほしくないことはカメラの前では話さないでください』とも言っています。ただ、岸さんに限っては例外的に事前に、映画の中で彼が映っている場面だけを見せると約束しました。それは、岸さんが襲撃されたら大変ですから」

 

 プロデュースとともに編集も自身でおこなう代島さんは「映画は編集だ」と言う。とくにドキュメンタリーは編集で、がらりと印象がわかることがある、と。その編集に『三里塚のイカロス』は半年をかけた。作業は自宅二階の書斎をかねた工房で、淡々としたひとりの作業だ。


「不安にはなりますよ。これで、つながっているんだろうとか」


 完成までの間にカメラマンの加藤孝信さんに数回見せたのと、信頼する十人くらいのひとたちを集めて一度だけ試写した。酷評数多だったことがショックで、その後は他者には見せずに再編集に取り組み、『三里塚に生きる』につづき音楽を担当してもらった大友良英さんと打ち合わせをするまで誰にも見せなかったという。

 

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👆渋谷 シアター・イメージフォーラムにて上映中 前作『三里塚に生きる』も上映 (撮影/朝山)

 

 9月になって『三里塚のイカロス』を上映している渋谷のシアター・イメージフォーラムでは、小川プロダクションの記録映画の特集上映が組まれていた。『三里塚・岩山に鉄塔が出来た』(72年、小川紳介監督)を観た。
 農民たちの闘いを支援するために集まったトビ職の若い男たちの指揮で、様々なヘルメットの学生たちが60㍍の大鉄塔(飛行機の離着陸を阻止するために、滑走路予定地に建設)をつくりあげてゆく。岸さんが空を見上げていた場所だ。

 大鉄塔を造り上げるまでの過程をカメラは頂上にへばりついて撮っていた。高所恐怖症の眼には映画を見ているだけでドキドキした。鳶という職人仕事を捉えた映画でもある。
 私事ながら、まだ鉄塔がそびえ立っていた頃に「でっかいなぁ。これ、どうやってつくったんだろう?」と真下から呆気にとられながら見上げた記憶がある。鉄塔の映画で印象深かったのは、完成後のトビの頭領へのインタビューだった。「求められて自分たちはこの鉄塔をつくったんだけど、いまはむなしさを感じる」という。

 むなしさとは何をさすのだろう?
 青年が言うには、鉄塔が完成してしまえば、自分たちトビはここを去らなければならない。素人を交えた難作業だけに愛着もある。たかだか鉄塔だが、これが農民たちに意味あるものになってくれることを願う。このあと、この鉄塔をどうするかは農民が決めることだけど……。

「むなしさ」はその後の出来事に関わることがない、当事者にはなりえない心情を語ったものだった。当時の若者たちの多くがそうだったように長髪の彼が、インタビューの最中は黒いサングラスをはずし、その傍を幼い女の子が「ねぇ、もう終わりなの」とまとわりついていた。
 学生運動からトビの職人に転じたのか、彼自身は詳しくは語っていなかったが、支援の若者のなかに、ふだんはビルなどを建てている職人たちが少なからずいたということに圧倒された。

 ところで、岸さんが自分の映像を確認するときにいちばん気にしていたのは、つい口を滑らした活動家時代の自慢話が入っていないかどうか。そういう場面が一切使われていないことを確かめたあと、代島さんに「自分で協力できることがあったら何でも言ってくれ」と話したそうだ。さらに映画の製作資金を補てんするためクラウドファンティングをやっていると聞くと、周囲のひとたちに映画のことを話していたらしい。

三里塚のイカロス』にはいろんな見方はあるだろうが、「過去」を懐かしむ映画ではない。観終わった直後に心中がざわざわとするのは「希望」をそこに見出そうとするからだろう。

 映画のパンフレットに代島さんは、農民と支援の学生たちの関係を『七人の侍』になぞらえながら、最後にこう書いている。

《成田/三里塚の空港反対闘争で勝ったのは、国家と上手に和解し、高額の補償金を手にして移転した農民なのだろうか? 空港は建設されたのだから、国家は勝ったのだろうか? 農民を助けた“あの時代”の若者だけが負けたのだろうか? そこにあるのは勝ち負けなのだろうか? その答えを見つけるために、ぼくはこの映画を作った。》

 つづく

映画公式サイト👇

映画上映館情報👉三里塚のイカロス | シアター・イメージフォーラム

 

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