わにわにinterview「ウラカタ伝」 (わにわに伝)

ふだん表に出ないけど、面白そうなことをしているひとを呼びとめ、話を聞きました。

タイに移住後、再び写真を撮りだした奥野さん

【わにわにinterviewウラカタ伝⑨】
赤いランドセルの中年男に聞く【3/3】

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インタビュー・文=朝山実
写真撮影 © 山本倫

前話を読む☞「日本に帰りたいよ」と娘には泣かれましたけど

 

「DAISUKI JAPAN」日光江戸村編www.youtube.com

 

 赤いランドセルを背負ったヘンな日本人のおじさんと、タイ語で話す元気なレポーター女子のコンビが日本の観光地を紹介する。タイのテレビ局で放映されている日本の観光情報番組「DAISUKI JAPAN」は、奥野安彦さんが設立したタイの現地法人企業で制作している。

 昔仕事をしたことがあるというひとがこのブログをみて、「奥野さんは、いまはそういうことしているんですね」と関心していた。そのひとも、いまは出版とは異なる「がん対策」の仕事をしているらしいけど。
 写真家をやめてタイに一家で移住した奥野さんだが、最近また番組の中で写真を撮る姿が映り、撮った写真も見ることができた。一見カメラをぶら下げた観光オジサンの風体だけど、写真を見るとプロはちがうなぁと思う。

「まったく撮らなくなったわけじゃないんですよ。お見せしていませんでしたが、象の暮らしとかお坊さんとか撮影してはいるんです」

 いまではランドセル姿が定着。すっかり、旅番組のリポーターが様になっている奥野さんの昔を知らない人のために、カメラマンになろうとした若い頃のことを訊いてみた。そういえば、かれこれ知り合って30年くらいになるけれど聞いたことがあったような、なかったような。
 
──ところで奥野さんは、どうしてカメラマンになろうとしたの?

「いくつか大学受験をしたけれど浪人することになったときに、予備校には行かず、図書館とかで勉強していたんですよ。漠然とだけど『ああ、世界を旅行する仕事をしたいなぁ』と思っていて。というのも父が昔、世界各地を紹介する写真図鑑のようなものをもっていて、こういうところに行けたらいいなというのがあったんです。
 そんなことを思っていた頃に、大阪市立美術館でロバート・キャパの写真展をやっていた。キャパといえば、スペイン内戦の最中に撃たれて倒れる兵士が有名ですけど、『かっこいいなぁ。世界中を回れるんじゃないか。そうだ。カメラの仕事はどうだろう』と思った。動機といえばそれが最初。すごい、単純なんです」
 
──それまで写真を撮ったりしたことは?

「うちに(父の)オリンパス・ペンという小さなカメラはあったんだけど。それまでカメラにとくに興味があったわけでもなく、たまたま東京の写真専門学校のパンフレットを見つけて、なんか面白そうなことを書いてあったんですよ。

 当時、写真界を牽引していた土田ヒロミさんをはじめ、現役バリバリの写真家が講師にそろっていて。それで親に、説明会があるから東京に行きたいんだ、という話をしたら、意外にも父親は『いいよ』と言ってくれた」

 

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 奥野さんが入学した1970年代末、東京綜合写真専門学校には特有の熱気があった時代だったという。講師と学生が授業の枠を超え、居酒屋で写真論を語り交わすだけでなく、一緒に銭湯に行き、そこでもまた話し込む。大阪では、ひとり図書館に通い悶々としていた若者にとって「受験勉強よりもこれは楽しい」とのめりこんだのも自然のなりゆきだった。


「写真を撮ることで、社会と関わっていきたい。そういう気持ちが日に日に高まっていくとともに、ゼミの先生たちも『写真を通して世界を知る、写真を通して世界を語る。そういうことができるんだよ』と語ってくれる。本当に風呂で語ったりしてハダカのつきあいのできる無頼な先生たちがいたんですよね」

 写真学校に入学するとともに買ったのはニコンF3。一眼レフの最新型でレンズは2本。35~50ミリと80ミリにした。
 開放感に満ちた写真漬けの生活。まわりには大学を辞めて入りなおしたという学生もいた。そうこうするうちに「師匠」となる写真家・本橋成一氏のアシスタントとなった。

「きっかけは、これも写真展。その前に写真家の橋口譲二さんと知り合い、当時彼のまわりにはたくさんの若者がいて、ボクもその中の一人だった。学校の傍に仲間で部屋を借りて、写真の若手集団のようなものを作ったりして、橋口さんが撮影に行くときに助手をしたりしていたんですよ」

 橋口氏と知り合ったのは『17歳の地図』の撮影以前、新進気鋭のカメラマンとして注目を浴びかけていた頃だった。

「橋口さんが『オクノ、すごくいいカメラマンがいるんだけど、見に行かないか』というので一緒に写真展に行ったんです。本橋さんが『サーカスの時代』という写真をとっていたときで、橋口さんと別れ、会場にたまたま残っていたら、本橋さんがやってきて、『お腹減っている?』とオニギリをもらった。『キミ、暇だったら、うちで手伝ってくれない』と言われ、授業が終わったら通うようになり、そのまま居つくようになりました」

 本橋氏に薦められ、奥野さんはカナダで一年間ファッション写真家の助手をするなどした後、写真学校に復学。24歳のときに、韓国の定着村(ハンセン病回復者の村)の生活を撮影、86年から87年までは延世大学国語学堂に留学した。

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「僕のデビューは、本橋のお父さんがなくなったときに、平凡社の月刊誌『太陽』で彼が撮る16ページの企画があったんです。穴井文彦さんがライターで。オレは撮れないから代わりをオマエがやれという話を本橋さんが強引に決めてきてしまった。その号の巻頭はアラーキーで、特集の次に来る企画だったんです」

 本橋さんが編集者に代案を伝えたのは、企画の変更のしようがないタイミングだった。心境的に撮れないというのもあったのかもしれないが、本橋氏にはこれをきっかけに奥野さんをひとり立ちさせようという意図があったのだろう。

──撮ったのはどんな写真だったんですか?

「韓国の農村を撮りに行ったんです。4、5日かけて。二日間で撮ることになっていたんだけど、手ごたえがない。韓国の友人を案内人になってもらって、撮りなおすことにした。ご飯を食べたり、作業をしたりしている、ナマの韓国の農村の風景を撮ったんです。もう必死でしたよ。
 本橋さんの代役だし、ぜったい穴はあけられない。自分で言うのもなんですが、気合が入っていたと思います。幸い、雑誌の表紙に名前が載り、『アサヒカメラ』にも若手カメラマンの写真がいいと評価してもらった。それがデビューになったんですね」
 
 ソウル・オリンピックの前年ということもあり、韓国にスポットが当たっていた。以降「週刊宝石」「週刊プレイボーイ」といった雑誌で韓国の若者たちの特集写真を発表。その後も、少数の白人が支配するアパルトヘイト政権下にあった南アフリカを、現地に半年以上滞在して撮影するなど、報道写真家として実績を築き上げていった。
 
「88年に、オーストラリアで黒人のミュージックを見て感動したのがきっかけで、ミュージカルの背景にあるものを見ようとしていったのが南アに行った最初でした。直後に投獄されていたネルソン・マンデラ民主化運動のカリスマ的指導者。初代共和国大統領)が釈放され、ニュースに大きくとりあげられたりしたんですね。
 当時「コスモポリタン」「月刊プレイボーイ」「フライデー」などに、こちらでテーマを選らんで持ち込めば、売り手市場で特集を組んでもらえたし、現地に半年もいたら、アパルトヘイトの下で白人と黒人がともに生活をしているところなど媒体ごとにいろんな切り口のストーリーがあった」

 長期の取材をともにしたのは、後に妻となるノンフィクションライターの佐保美恵子さんだった。その後奥野さんは阪神・淡路大震災の被災者やパラリンピックを撮影してゆく。

「先行きが思わしくなくなるのは04年あたりから。当然のように出ていた取材費が出なくなる。ギャラも半分近くになったとこもあり、判断を迫られた」

 そこからこのインタビューの最初の回の、一家でタイへの移住となっていくわけだが、一度写真を撮ることをやめていた奥野さんが、最近になって写真を撮る姿がテレビ番組の中で増えてきた。折りしも番組スポンサーにカメラメーカーのオリンパスがついたのは2016年5月に入ってからだった。

「タイの地上波デジタル局での番組放映は週一回で、一回日本に行くと10日間ほどの滞在で10本分の番組を作るサイクルでやりくりしています。もちろん他の仕事をしながら。ようやくもうこれでやっていけるぞ。と、思いかけたときに、メインのスポンサーになってもらった会社から打診があったんですよ」

 ありがちな話ながら、人生は山あり谷あり、さらに奥底ありってこともある。日本を紹介する観光情報番組『DAISUKI JAPAN』を始めて2年目になろうとしていた時に、メインスポンサーが経営悪化のために降りたいと伝えてきた。
 緊急に代わりを見つけなければ。ほうぼう知人を介して、たどりついたのがオリンパス現地法人のトップ。面談したところ、相当な写真好きというのがわかった。カメラ会社のトップなのだから写真好きというのは当たり前と思いがちだが、概して経営と好みは別ものということもある。

中平卓馬の写真論とかを話したりしているうちに、スポンサードしたいという話になったんです。だからいまはオリンパスのカメラを持って、必ず『オリンパス』と口にしています(笑)」

 

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☝「DAISUKI JAPAN」で埼玉県飯能市の彫刻家さんを取材中のヒトコマ

 

 もうひとつ、オリンパスとの関係でいうと、奥野さんがほぼボランティアで関わっている、日本とタイの文化交流を企図して始められた高校生の写真コンテスト「天河高校写真コンテスト」(北海道東川町で開催)にもカメラの提供などでサポートしてもらっている。
 
 バンコクチェンマイの高校を対象に予選を行い、優勝チームたちは北海道の東川町で行われる本選に参加できる。今年4回目となるが、奥野さんは初年度よりタイから北海道へ代表チームを送り出すコーディネーターを務めてきている。

「これもオリンパスの社長さんに話すと『オクノさん、その話いいね。ノッタ! いくら出せばいい?』『10万円くらい』『いいよ』って(笑)。話が早いんですよね。
 高校単位でチームを組んでのコンテストなので、条件を同じにするために撮影するオリンパスさんからはカメラを貸し出してもらえるようになりました。それまでは自前のカメラだったんです。それだと、金持ちとそうでないのひとで格差が出てしまう。これはフェアじゃないと思ったので」

 今年の応募総数は百を超え、東川町が主催するコンテストの規模も大きくなり世界13カ国の高校生が参加するという。

「これまで参加したタイの高校生たちはすごく喜んでくれているし、実質ボランティアなんですが、これからも続けていこうと思っています」


【ふろく】奥野さんの「いま」ということで「DAISUKI JAPAN」が参加したワークショップを見学してきました。

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2017年5月。「DAISUKI JAPAN」の取材チームの奥野さんとリビンさんが、書のワークショップ(飯能市在住の書道家・山田麻子さんが指導)に参加するというので、2時間見学しました。

「書道」というと、子供のころ教室で半紙に墨で「努力」「太陽」とかいう文字を書く。とくに何の思い入れもない文字。母も姉も兄も字が上手いのに、自分だけこんなにヘタなんだろうと思いながら筆を手にしていた。ところが晩年の父の字を見たら、なんとも拙さ加減が似ていたので、これは父の血をひいたのだと納得したものの、10代の頃はすごいストレスで、定規をあて印刷文字のようにしてノートに筆記していたこともある。当時はろくにひとと会話することもなく神経症気味だった。個人的にはそんな書や文字を書くことの先入観があったのだが、この日のワークショップは不思議なことの連続でびっくりだった。

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 まず参加者が会場の裏山に登るところから始まった。それぞれに自分が気に入った石と野草を摘むように言われる。石は文鎮代わり。どんな大きさ形を選ぶかでそのひとがわかる、と書家の山田さんは軽やかな口調で言う。野草は「筆」にするらしい。
 根っこのついたままの草をぐいっと引き抜いたリビンさんに「立って書くから丈があるほうがいい。ロングイズグット」と声をかける。草で習字? まったく想像できなかった。

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 ワークショップの会場は、杉の木々がまっすぐに立つ急斜面の小道を登ったところにある旧家の二階の大広間。築百年以上の養蚕家を改造し地域の集会場にしているらしい。参加者は汚れてもいい服に着替え、新聞紙を敷き詰めた板の間に裸足になって上がる。書というよりも武術道場の気配が漂う。

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「はみ出してもかまいません」「読めないほうがサイコーだと思って」「してやろう感はナシ」「小手先で書くのではなく、腹で書く」などなど。草で書くというのもそうだが、山田さんの指導は、学校の習字のイメージにあてはまらない。
 参加者が、墨のバケツに草の根っこをドブンとひたし、紙に振り下ろす。飛沫が撥ねる。
「二度書き、三度書きでもいいの」「あせって書こうとしなくてもいいから」「過呼吸には気をつけて」と山田さん。慣れない全身運動だけに、体調をくずす人もいたのだろう。最初に軽く柔軟体操をしたのもそのためらしい。

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 与えられた課題は「ほしいもの」。参加者は、思い思いに草の筆を紙に走らせる。「時」「和」「湯」「美味」……言われてみればそう読めなくもないが、山田さんは一人ひとりの作品を前にして「いい!!」を連発する。短く感想を交え、どうしてこの字を書こうとしたのか聞きだしていく。
 元気いっぱいに答えるひともいれば、静かにとつとつと返すひともいる。トウトウトウ‼と武術の試合のように気合の入った掛け声とともに参加者の女性が草をたたきつける。会場の大広間は両端の戸がすべて取り払われ、風が通い外に向けて開放されている。面白い空間だ。

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 学校の書道では、二度書きはしてはいけないことだと教わった記憶があるのが、山田さんは、書き損じたと思えば書き足してもいいという。それも意外だった。字も漢字、ひらがな、カタカナ、英語、タイ語なんでもOKだというし。
「ほしいもの」の課題では、リビンさんの字を「これ、すごい!! わたしがイメージしたのはモリモリとした心臓だけど」と山田さん。「桃なんです」「あははは。ピーチなの。すごい!!」という。文字を鑑賞するというより、絵を楽しむのにちかい。
「旅」と書いたひとには、「どこに行きたいのか、イタリアに生きたいとか、場所を頭に描きながら書くともっとよくなるよ」という。

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「筆を替えてもいいよ。指で書いてもいいからね」
 30分ぐらい見学していて気づいたのは、先生が「ダメだし」しないこと。まず、ほめる。というか絶賛する。身体いっぱいで書くことを求め、先生もまた身体いっぱいで「すごい」と肯定する。細かなことなことは言わない。
 ひらめきが大事といわれ、逆に考えこんでいるひとを見つけると、「みんな、ほしいものが手に強いるわけじゃないからね。表現することが大事だから」。書き上げたものが読めなくとも、伝えたいものがこもっていれば「すごくいい!!」と褒めあげる。最初は、なんじゃこりゃ!?と呆気にとられたが、距離をとってリングの外から眺めているこちらにも身体を動かしている「楽しい」が伝わってきた。

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 最後は、畳半分くらいの紙を使い「好きな歌のサビの部分」を書く。奥野さんが書いたのは「男と女の間には」。野坂昭如がよく唄っていた歌だが、もはや爽快なくらい絵になっていて読めない。
「何か書いてあるぞ、というのは伝わってくる。それでいいの」と先生。
「書いた文字を見たら、そのひとらしさが出ている。逆に自分らしさを出そうとすると、出ないもの。こうやって草で書こうとするとバカバカしてくて、上手に書けるわけではないから、自分らしさがでる。たとえば○を描いても、それぞれに違う○になる。みんなでやるということで、一人ひとり違うというのを感じてもらえたらいいなと思います」

 

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 書き終わった作品に朱印を押してそれぞれに感想を述べながら返し、全員で片付けに移った。
 書家のひとが大きな筆を使い、大きな紙に書くというパフォーマンスはよくテレビなんかで目にしてきたが、そういうのとも違っていた。身体全体を使い、自由に書くというのは、ひらたくいえば自分を解放するというのかな。傍で見学していた奥野さんの友人で元音楽教員のミツハシさんが、「これが自分なんだと気づかせる手助けをしているんだろうね」と言っていたのが印象に残った。
 帰宅後、気になって山田麻子さんのホームページなど調べていくと、ドキュメンタリー映画三里塚に生きる』(大津幸四郎代島治彦監督)の冒頭に映る題字を書いていたのが山田さんだということを知った。独特の解放感や型にとらわれない助言に、なるほどなと思った。縁というか、奥野さんは山田さんに会うのは初めてと聞いていたが、代島監督は彼の友人のはずで、不思議とひとはつながっているものだと思った。

 

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山田麻子さんの活動☞お知らせ « 山田麻子 YAMADA Asako Official Web site

 

 おわり