「ウラカタ伝」

ふだん表に出ないけど、面白そうなことをしているひとを呼びとめ、話を聞きました。

お役に立てるなら掃除でも何でもさせてください、というノンフィクション賞受賞作家さんの押しかけ書店訪問に密着しました。

【わにわにinterviewウラカタ伝⓬】

『黙殺』の畠山理仁さんに話を聞きました(1/3)

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インタビュー・文=朝山実
写真撮影 © 山本倫子Yamamoto Noriko

 

 2018年1月末。「自分は人に恵まれている」というフリーランスライターの畠山理仁さんに一日密着しました。

『黙殺 報じられない"無頼系独立候補"たちの戦い』(集英社)で、第15回開高健ノンフィクション賞を受賞された畠山理仁さん。「無頼系独立候補」とは、ときに「泡沫候補」と呼ばれ、選挙に立候補するもののマスメディアに取り上げられることのない候補者たちを、畠山さんはリスペクトを込めてこう呼んでいる。取材期間はなんと20年間。受賞にいたるまでのライターの個人史をうかがいました。

 この日は前日の大雪で、路面が凍結。高速道路は通行禁止となり、畠山さんが待ち合わせの最寄り駅に到着したのは約1時間遅れ。そこから畠山さんが運転するクルマで、一軒目のくまざわ書店アカデミア菖蒲店さんへと向かった。

「このクルマは、福島の取材をしていたときにもらったんですよ」

 畠山さんが運転するクルマには、ナビ代わりにiPhoneが運転席の前に取り付けられていた。そこからなんとなくクルマの話になった。
 原発事故のあった福島の「その後」を取材するうち、親しくなった人から、いまのクルマを譲り受けたのだという。直前まで乗っていた愛車の走行距離は16万㌔を超え、見るに見かねてのことだったらしい。

「『まだ3年しか乗っていないけど、今度クルマを買い換えることにしたから、手続きを自分でやるなら持っていっていいよ』と言われ2年前にもらいました。福島の人って、乗らなくなったクルマをそのまま家に置いていたりするんです。土地が一杯あるからなんでしょうね」

──それにしても太っ腹だなあ。

「そうですね。でも、このクルマも3年で、すでに9万㌔走っていたんですけどね」

──それは走行距離としてはすごいんですか? まったく運転しないからそういうのが分からなくて。

「そうですね。日本だと、ふつう10万㌔を超えて乗っていたら珍しいと言われます。でも、そういえば最初のクルマももらったんですよ。25歳のときだったか、プジョーの205という外車だったんですけど」

 その時も買い換えるから、いらないかということだったという。相手は、畠山さんの奥さんが当時勤務していた会社の上司だった。

「そのクルマは左ハンドルのマニュアル車で、欲しいという人がすくなかったというのもあるんですけどね。あと、右折レーンに入ると必ずエンストするクルマでした。2ドアで、結婚して子供が出来たときにチャイルドシートを載せるのが大変だったので、トヨタラウムという車を中古で買って10年。それが16万㌔走った車なんです」

 そんなクルマにまつわる話を、駅から書店さんが入っている大きなショッピングタウンまでの道すがら聞いた。
 左ハンドルのマニュアル車は、友人たちと遠出をする際には、運転がしづらく、行きも帰りも運転するのは自分ひとりで参ったという。グチがグチっぽくないところが畠山さんなんだろう。書店営業をする畠山さんに同行したのは、そうしたちょっとソンな役回りをする感じに魅せられたからだ。

 通常、作家さんが書店をまわるといえば、出版社の営業部がお膳立てをし、サイン会を設定したりするのが一般的である。ある日、畠山さんのツイッターを見ていると、「(『黙殺』を置いていただいている書店さんの)販売のお手伝いになるなら掃除でも棚卸しでも何でもさせていただきますので、気軽にお声をかけてください」という、なんとも腰の低い書き込みがあった。それから数日後、掃除はともかく、訪問して店頭にある本にサインをしている写真が載っていた。

 おもしろい人だなぁ。
 畠山さんには一度、「週刊朝日」の誌面で『黙殺』の著者インタビューをしたことがあった。大川興業大川豊総裁と一緒に取材していた人だという先入観からラフな服装を想像していたら、当日は黒いスーツでカタイひとに見えたのだけど、話しはじめと物腰がやわらかく、というかホテルマンみたいにきちんとした口調で、しかも話しかけやすい。
 ふだん標準語のワタシが録音テープを聞き返すとベタな関西言葉になっていた。それだけ気持ちが楽だったということだが、それがすごく意外だったということもある。そんなこともあって現場を見てみたいと思ったのだ。

「いいですよ。今度、千葉の書店さんに行くので、先方の書店さんの了解が得られたら来られますか」

 畠山さんから書店に連絡してもらい、夕刻の訪問が決まったのは、かれこれ二週間くらい前のこと。さらに前日になって急遽もう一軒追加の書店が出来たと連絡が入った。場所は埼玉県の久喜市。午後イチで久喜の書店を訪ね、千葉県佐倉市志津駅まで車で横断移動するという。「僕が運転する車に同乗してもらって二軒目に向かうというのはどうでしょう」と畠山さん。

 ということは移動中の車中でインタビューするのか。「情熱大陸」みたいだな。昔、何度かそういう助手席相乗り取材はやったことがあるけど、喫茶店や会議室でインタビューするのと違い、すごく距離が詰まった話になったりするんだよなぁ。密室だからか。じつはこの近すぎる距離感が苦手。でも、断るのもなんだし…。

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──畠山さんというと政治方面が専門というイメージですが、何かのインタビューを見ていると、お墓の取材をされていたことがあるんですよね。

「ああ、それは『通販生活』という雑誌でライターの仕事をしていたときですね。戒名の値段は妥当なのか、お墓選びはどうしたらいいのか。ほかにも樹木葬とか、ボタン式の納骨堂だとか。実際に散骨をされた、ご遺族の人を訪ねていったりしましたね」

──お寺にも取材に行かれたんですか?

「戒名はいくらくらいするものか聞きに行きましたね。『お気持ちですから』というのを、それはいくらぐらいでしょうかと。30歳くらいの頃ですかね。フリーランスなので、そういう政治以外のこともちょこちょことやっていました」

──畠山さんは「週刊プレイボーイ」の専属記者ではなかったんですか?

「一度もそういう契約をしたことはなかったです。仕事をする機会は多かったですが、とくに何の保証もない立場で。ただ一回だけ、そういう契約の提案をされたことはありました。『週刊ポスト』でデータマンをやらないかと。時期としては結婚して、ちょっとしての頃です」

──ご結婚されたのは?

「25歳です。雇用契約的なものをしないかというのは、これを入れて一生のうちで二回。でも、どちらも最終的にはお断りしました。
 どうして?
 ほかの仕事ができなくなるというのが嫌だったということですかね。迷いはしましたが、もうちょっと稼げるんじゃないかというのもあって。『週刊ポスト』のときも悪くはないというか、同世代のサラリーマンくらいの給料+別途取材費という話だったんですが、妻に相談したら、『やめたほうがいい』と」

──奥さんが? フリーランスよりも安定してくれたほうがいいというふうに思いそうなのに。

「そうですね。子供が出来たときにも『通販生活』の社員にならないかという話をいただきました。ありがたい話だし、僕は乗り気でひとりで話を進めていたんです。
 そのときは子供が出来たからと、けっこう強気な条件を出していたんです。きっと断られるだろうと思っていたら、驚いたことにぜんぶ呑んでくれました。これはスゴイと思って、その夜、妻に『来月から会社員になるから』と報告したら、『とてもありがたいお話だけど、すぐにお断りしなさい』と」

──すごいですね。そのときは共働きですか。

「いえ、奥さんは結婚して間もなく仕事を辞めたので、働いてなかったですね。
 僕が会社員になることに反対した理由は、『社員になると、やりたいことが自由にできなくなるよ』というものでした。社員にならないかと誘ってくれた人のことは妻も知っていて、いい人だと思っていたんですが、会社員になったら異動があったりするんだよって。僕は会社員になったことがないので、そういうことはまったく考えていなかったんです」

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 まだ若いライターだった頃の話の途中で、郊外型のショッピングタウンに到着した。
 応対をしていただいたのは、くまざわ書店アカデミア菖蒲店の加藤店長さん。
 畠山さんがコートを脱ぐと、黒いスーツの下から『黙殺』のカバーをプリントしたTシャツが見えた。

 すこし離れた位置から眺めていた。礼儀正しく、名刺交換をする、曲げた背中の角度が営業マンっぽかった。先週「毎日新聞」に書評が載ったばかりで、紙面を貼ったボードの前で、鞄から書評の載った雑誌や新聞記事の切り抜きファイルを取りだし、捲っていく。

 用意してきたPOP用の小さな色紙にサインをしていると、店長さんから「本にもサインしてもらえますか」という言葉を引き出すことができた。
「ありがとうございます。いいですか? 本当にいいんですか?」と畠山さん。本にサインをし終えると「選挙」の立候補者が選挙ビラに貼る選挙管理委員会の印紙を貼る。

「たくさん余ったからと候補者からもらったんですが。一回限りのレアなものです」

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昔ヒーローショーの
レッド役をやっていました

 

 再び畠山さんが運転する車内。二軒目は、千葉県佐倉市だ。
 畠山さんは、一浪して入学した早稲田大学の学生だった頃からライターのバイトをしていたという。さらに職歴をたどると、浪人して予備校に通っていた期間はヒーローショーのバイトをしていたという。

「ゴレンジャー・シリーズの戦隊モノで『鳥人戦隊ジェットマン』のレッドホーク役をやりました。センターにいる“赤”ですね。身長が176で、ショーの運営をしている社長さんから、『ちょうどキミの身長と体型に向いているから』と言われました。

 バイトに登録するとまず稽古日があって、事務所の近所の児童公園で殴り方やキックの受け方を教えてもらうんです。格闘シーンの間に悪役が出てきて『ムハハハハハハ』とMCが始まる。そこは社長の担当で、やりとりなんかも、ぜんぶ社長から教わりました。

 で、最初はレッドをやっているんですが、途中で引っ込むと、次は悪役に着替える。いやいや、ちがいました。最初は全身黒タイツの悪役で観客を怖がらせる。それが終わると後ろに引っ込んで、黒タイツの上にレッドの衣装を着て戦うんです。それだけ人数が少ないということなんですけどね。

 ヒーローショーが終わると、今度はジェットマンの格好でサインを書いて物販タイム。『ジェットマン☆』というサインをするんですが、時間がないときはあらかじめ書いておいて、子供たちと写真を撮って渡す。子供がVサインしている横で、こうやってコブシを突き出し、決めのガッツポーズをつけるんですよ」

 

 ハンドルから手を離し、畠山さんが曲げたコブシを前にしてみせる。18歳のときのことだ。
 ヒーローショーのバイトを始めたのは、予備校が休みの土日に出来るバイトを探していたところ、学校の近くにたまたまスーツアクターの事務所があったのだという。

「当時は、僕は愛知県にいたので。そこはジャパンアクションクラブにいた人が始めたところで、ほかにアンパンマンとカールおじさん、仮面ライターブラックRXもやりましたね。ショーは子供のいるところに出かけていくというのが多かったです。たとえば住宅展示場だとか、ショッピングモールだとか。遠いと長野まで出張していました。

 ハイエース一台に、田尻さんという悪役の社長さんと声優の副業でMCをしているお姉さんと僕らで乗り込んで、一日に市内を三軒くらい廻るんです。

 バイトとしては面白かったですよ。いろんな場所に行けましたし。田尻さんの昔の仲間で東宝の人から『JAC(ジャパンアクションクラブ)に入らないか』とスカウトされたときは受験生でしたから、心はすこし揺らぎましたけど。

 ええ。揺らぎましたね。社会人の人から、そういうふうに名刺をもらって話しかけられるという体験はなかったですから。これが噂に聞くスカウトかぁって(笑)。

 あれからずいぶんになりますが、田尻さんから『子どもにとってヒーローはお前一人しかいない。目の前にいる人には誰一人として手を抜くな』と言われたのはよく覚えていますね」

 畠山さんが育ったのは愛知県東海市。高校時代は新聞記者志望で、大阪に行きたいと思ったという。

「両親は東北の出身です。父親が岩手で、新日鉄釜石に勤めていました。母は宮城。名古屋への転勤を機に結婚して、住んだのが団地だったんですよ。きょうだいは、上に二つちがいの姉がいます。

 愛知を出たいと思ったのは、地元のお祭りがあるんですけど、団地の子供たちはそこに入れてもらえないという排他性が嫌だったんですよね。どうせ、またいなくなる人たちということだったんでしょうけど。お祭りに参加したいと言っても、地元の子供じゃないからと断られる」

──そんなにお祭りが好きだったんですか。

「楽しそうに見えたんですよ。『猩猩(しょうじょう)メッタ』という鬼がバリンと呼ばれる割れた竹を持って町を練り歩くというお祭りだったんですが、地元の子供たちが『ショウジョウメッタに追っかけられて怖かったー』なんて話しているのが面白そうで参加したかった。なんで入れてくれないんだろうと。
 もちろん子供同士は仲良くしてくれるんですよ。でも、大人の世界は、家を持ってナンボみたいなことを感じていたんですね」

──『黙殺』の選挙取材もそうですが、記者クラブに限定されたものをフリーランスにもオープンに取材させろという活動をされていたのとどこか通じますね。

「たしかに、そうですね。入りたいという人は入れてあげればいいじゃないかという。当時から機会は平等にしようというのはありましたね」

──でも、どうして新聞記者になりたいと思うようになったんですか。

「中学校までは学校の先生になりたいと思ったんですが、マジメでないと先生はダメなのかなぁと思い始め、自由にやれる仕事は何だろうというので新聞記者が浮かんだんです。それも何となく本を読むのが好きだったので、本に関わる仕事がいいかなというくらいのことでした」

──当時、開高健の本を読んだりされていました?

「高校生のときはまだ読んでないです。名前は知っているくらいでした。
 僕が通っていた県立高校は、学校の先生になりたいという子が一杯いて、成績がいいと地元の愛知教育大を目指すんです。僕は愛知県から出たいと思っていたので、志望校は距離的に近い大阪にした。東京よりも街が楽しそうだというのもありましたね。気質が合うんじゃないかと。

 どこが合うか? 受験の前に下見に行ったら、『小便すな!』という、もう注意書きなのか、落書きなのか分からない書き込みが街中にあるのを見て、妙に気に入ったんです(笑)。
 それが一年目で、ぜんぶ落ちてからは名古屋の河合塾の"関関同立コース"に入って、3ヵ月死ぬ気で勉強したら成績がグンと上がったので『よし!』と。そこからスーツアクターのバイトをするんですよね」

 聞き手のワタシは関西出身なので、路地に面した塀などに「小便すな!」という張り紙があるのは見慣れた風景ではあったが、畠山さんが大阪を好きになったというポイントを聞いて、「そこかい!」とズッコケそうになるのをかろうじて「へぇー」と笑って受けながしていた。

 翌年、畠山さんは早稲田大学の文学部に合格。お姉さんが先に東京で暮らしていたことから同じ部屋に住むことになる。

「早稲田にしたのは、予備校時代に名古屋球場で野球の早慶OB戦を観に行ったら、学ランを着た応援団が格好よかったんですよ。早稲田に入れたら、応援団に入ろう。ええ。そう思ったんです。

 そうなんですよ。動機がすべてにおいて、いいかげんなんです(笑)。予備校のときに3カ月猛勉強をしたのも、当時付き合っていた彼女に『受験の邪魔をしちゃいけないよね』と見捨てられそうになり、奮起するわけです。年上の彼女は愛知県の大学に通っていて、東京に行ってからもしばらく付き合いは続いたんですが、計画性もないものですからその後は、まあ」

──それで応援団には結局入ったんですか?

「入らなかったですね。同じクラスに早々と応援団に入ったのがいたんですが、毎日朝早くから大変だなぁと見ているうちに、ほかのサークルの勧誘があり、楽しそうなお誘いに負けました」

──それは何のサークル?

能楽でしたね。謡いと踊りです。ただ、それも結局何ヶ月かで辞めて、劇団をつくろうというのに参加したりしているうちに、編集プロダクションに出入りするようになったんです」

──そこで、いまの仕事とつながるということですか。でも、またどうして?

「編集プロダクションに入ったのは、やはり書く仕事はしたいとは思っていたんです。
 そのとき姉が荻窪のバーでバイトをしていて、早稲田出身の編集プロの社長さんがお客さんとして来ていたんですね。姉が『うちの弟も将来、書く仕事をしたいと言っている』と話したら、いますぐここに呼べということになって、やる気があるなら明日からうちに来いという話になり、そこからは学校にも行かなくなりました。

 そこは受験生向けに大学を紹介する本だとか、会社の社内報だとか、幅広くなんでもやっているというところで、雑誌の仕事もやっていました。最初はフーゾク情報誌で『MAM-ZOKU(マンゾク)』というのがあったんですが、そのレイアウトのラフを切ったりしていました。

 ここに文字が何級で何字何行というのを決めていったり、写真のアタリをとったり。それを教えてもらい、そのあとブックレットのデザインもやりました。ちょうどDTPが出始めた頃で、会社にあるMacは自由に使っていいよと言われたのが嬉しかった。そこからずっともうMacですね

──テープ起こしは嫌じゃなかったですか?

「わりと好きでした。自分でイチから何か書かなければいけないというよりは楽ですから。
 まだ二十歳頃で、ひとが話しているのを、へー、なるほどと思いながら文字に起こしていました。なによりMacをいじれることが楽しいという時期でしたから。いまの子がDSを離せないみたいにパソコンの前に張り付いていました」

──当時は、雑誌の売り上げは右肩上がりの時期でしたか?

「いえ、右肩上がりではなかったですね。大学入学が92年で、93年5月にバイトを始めていましたから。同時はまだ取材費は使えていましたが、少しずつ下りかけていた頃ですね」

──当時の編集プロの給料は?

「そこ聞きますか(笑)。月3万円です。見習いの丁稚みたいなものですね。だから、交通費とか抑えたいので事務所に寝泊りすることも多く、タコ部屋みたいになっていました。
 当時、学生は僕一人だったんですが、友達を呼んできたら給料をあげてやると言われて、一人呼んできたら5万円、さらにもう一人呼ぶと7万円と上がっていく。ものすごく怪しい(笑)。まあ、何も知らない大学生にいろいろ教えてくれたということで本当に感謝はしていますが、いま考えたら十分にブラックでしたね」

 

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 この記事を書いているワタシは、上京する前は大阪でプロローグという書店営業の会社を仲間とやっていたことがあり、畠山さんの後ろ姿を眺めていて30年くらい昔のことをつい思い出していた。
 諸事情からクルマで移動中にインタビューする「情熱大陸」ふうなスタイルになってしまったが、畠山さんが「無頼系独立候補」の取材に20年もの年月、飽きずに、へこたれずに続けてこられたそのエネルギーの源を知りたいと思ったのが今回の取材意図で、たまたまではあるけれど今年の大雪は幸いしたようだ。末尾のモノクロ写真は朝山が撮影しました。

(つづく)