20年越しの取材でノンフィクション賞を得たフリーランスライターの20年間に耳を傾けてみた
【わにわにinterviewウラカタ伝⓬】
『黙殺』の畠山理仁さんに話を聞きました(3/3)
インタビュー・文=朝山実
写真撮影 © 山本倫子Yamamoto Noriko
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20年間、活字にもならないのに黙々と取材をし続けてきた、選挙に立候補する無名の人たちのルポルタージュー『黙殺』(集英社)で開高健ノンフィクション賞を受賞した畠山理仁さんの「受賞前史」です。
フリーランスライターにして32歳で都内に家を建てたという。リッチだなぁと見上げる思いになったら、奥さんの両親からの後押しが大きかったという。
2018年1月末。前回に引き続き畠山さんが運転するクルマで、埼玉県の「くまざわ書店アカデミア菖蒲店」から千葉県の「ときわ書房志津ステーションビル店」への移動中に話を聞きました。
押しかけ書店訪問で「公約」どおりモップ掛けをさせてもらう畠山さん。
──こういう質問の仕方、失礼に聞こえたらすみません。畠山さんは人生で困ったことはあるんですか? 話し方があまりにひょうひょうとされているので。
「ありますよ、困ったことは(笑)」
──たとえば?
「たとえば……。バイクの事故で、お店のショーウィンドウに衝突して、割れたガラスを弁償しなければいれなくなったときですね。
誰も怪我はしなかったんですが、ぶつかったのがブティックで、お店の服にガラスの破片が飛び散ったので何百万も賠償を請求されたんです。
保険は使えたんですが、お店の方から『店が営業出来なかったぶんは保険でカバーできないんだから、誠意を見せなさい』と言われて、困ったなぁと。
結局20万円、お支払いしました。大学生のときですけど」
編集プロダクションで、まだ月3万円のバイトをしていた頃のことだという。20万円は大金だが、当時掛け持ちでやっていたピザ屋のバイトが月20万円ほどにはなっていた。
「困った……そうですねぇ。困ったというのは、主にお金ですね。
あとは最初の受験に落ちて、彼女にフラれそうになって困ったなぁというのがありますが」
──話をうかがっていると、いい人生だなぁと思えてきました。
「ええー、そうですか(笑)」
──もう死のうかなんて思うくらい困ったことはなかったということですよね。
「ああ、死のうか……。ああ……死のうか。あったと思いますよ。……なんだろう。わりと十代の頃はあったと思いますが、暗い本とか読んでいましたし」
──太宰治とか。
「ああ、太宰治はすごく好きでよく読んでいました。ただ、何かを成し遂げてからでないと死んでも仕方ないということに気づいてから、もうそれはなくなりました。
友達が自殺したんですよね。大学に入って最初に話した相手だったんですけど、大学2年の時に彼は精神的にまいってしまって休学して郷里に帰ったんです。
夏休みだったかなぁ。
僕が久しぶりに自宅に戻ったら、『いまサナトリウムにいます。みんなに会いたいです』という留守電が入っていました。
ものすごく気になりましたが、サナトリウムってどんなところかわからないから、どうしていいかわからなかった。
しばらくして共通の友達と話していたときに、アイツどうしているという話になり、僕が実家に電話したんです。
そうしたら彼のお母さんが出て、『なくなりました』と言われた。みんなでお線香をあげに行ったんですが」
──時折、そのご友人のことは思い出すんですか?
「思い出しますね。
みんなでお線香をあげに行った時に、形見分けで最初にCDをもらいました。
ビリー・ホリデイの『奇妙な果実』と、マイルス・デイヴィスの『コンプリート・マイルス・デイヴィス・オン・ブルーノート』。
どちらも2枚組で、マイルスの方はDisc1がなかった。彼が最後に聴いていたのかもしれません。
それから20年近く経って、もう一度、お墓を訪ねたことがありました。震災の翌年だから2012年ですね。
彼の実家が群馬県の太田市だったのを思いだし、福島に取材に行くときに、村岡君のお墓参りをしようかなと思い立ったんです。でも、お墓のあるお寺の名前も場所もわからなくなっていた。
記憶を辿って実家のあった辺りに行くと、ここだと思うところに彼の家がない。何人か近所の人に聞くと、前の家を建て替えられていたんですね。
突然訪問したのですが、ご両親に懐かしがっていただき、お墓に連れて行ってもらいました。
そのときにも、彼のお財布をあらたに形見分けでもらったんですよ」
──もう何年もしてから、お墓参りをされたんですか。
「そうですね。彼がサナトリウムに行くきっかけを自分がつくったんじゃないかという後悔もあるんです。
友達何人かで、バイクの後ろに彼を乗せて、よくキャンプやツーリングに行ったりとかしていたんですよ。
彼が引越しをするというときにも、『手伝ってよ』と言われ、友達何人かでレンタカーを借りて家に行ってみたら、何も準備していない。
『まあ、お茶でも飲みなよ』
『いやいや、ちょっと待てよ。明日引越しだというのに、まだ何もしていないのはどういうことなんだよ。これじゃ間に合わないよ』と責めたんです。
荷物を詰めるダンボールもなく。いますぐにやらないと間に合わないよって。
それで、折りたたみベッドを解体していたら、下から『少年ジャンプ』がごっそり出てきて、『これは要る、これはもう要らない』と選び始めるんです。
『そんな時間ないから全部捨てるぞ』と言うと、突然彼が『ああああアー』と過呼吸になって倒れ込んでしまった。
薬を飲んでしばらくしたら落ち着いたんですけど、『精神的にストレスがかかるとこういうことがあるんだ』と言うんです。
彼から『精神的な療養中です』というメモを、最初に話したときにもらった記憶はあったんです。だけど、みんなで楽しく過ごしているときに過呼吸になるということはなかったので驚きました。
その日は無事に引越しは済んだんですが、もう彼に呆れてしまって、その後はみんな彼の部屋には行かなくなってしまったんですよね。
留守電話があったのはそれから二ヶ月くらいした夏休みで、その後に『なくなりました』と告げられたということです。
だから、悪いことをしたなぁ。あのときに『ジャンプ』を全部引っ越しておけばよかったなあと」
──選ばずに『全部持っていきたい』と言われたらよかったのかもしれないですね。
「そうですねえ。それは一生の後悔ですね」
──思い出すというのは、どういうときなんですか?
「うーん……。辛くて死にたくなるようなときに、彼の顔が頭に浮かびます。
彼が死んだときにはものすごくつらい思いをしたから、おれは死んじゃダメだと思う」
──でも、友人のご両親は、もう何年もしてからお墓参りをしたいと訪ねて来られたのは喜ばれたんだろうな。財布を渡されたのも、何か渡さないといけないというのがあってじゃないかな。
「そうですね。大学のときのお写真と財布をもらいましたね……。
あと、お家でミツバチを飼っていらしたので、採れたハチミツもいただきました…。あっ、聞かれていたのは困ったこと、ですね」
──もう、いまのでいいです(笑)。
合流した『黙殺』の担当編集者の長谷川さんに一件目の訪問報告をする
「たしか困ったことはいろいろあったと思うんですけど……。
そうそう、イギリスに行ったときに困ったことがありました。編プロの社長(前回に登場)の知り合いが、東村山の市長選挙に出るというのでお手伝いをしたことがあったんです。
その選挙で初めて“カラス”をやって面白かったのが、僕の“選挙”とのファーストコンタクトなんですけど」
──その「カラス」というのは?
「“カラス”は、選挙の街宣車で手を振ったり、マイクを持ってアナウンスしたりしている、ウグイス嬢の男版なんです。
残念ながら陣営の候補者は落選してしまいましたが、選挙が終わった後、落選した候補の人が、僕の姉がバイトをしていた荻窪のバーで飲んでいたときに『イギリスに行くんだ』と言うので、いいですねぇと言ったら、『キミも行くか?』『いいんですか? 行きます、行きます』ってなったんです。
環境保全運動を視察しに行くというんですね。
具体的なことはよくわからなかったんですが、海外旅行はしたことがなかったので、行きたくて、向こうでレンタカーを借りて僕が運転するということで付いていくことになったんです。
父親くらいの年齢の人だったので、旅行中はゴハンのお金も出してもらい、よかった、よかった。そう思っていたら、残り三日となったときに、ホテルからその人がいなくなったんです」
──失踪?
「いえ、メモがあって、『これからドーバー海峡を見に行く、三日後に空港で会おう』と書いてある」
──はあ?
「早稲田(大学)の探検部の人で、自由な人なんですよね。
でも、僕はお金を持ってない。幸い、その日までのホテルの支払いは済んでいたんですが、空港までの交通費を考えたら持ち金は、ほぼゼロ。完全におんぶに抱っこ状態だったので、三日間どうしょうか……。
街を歩いていたらホームレスの人から、『お金がないんだったら一緒に教会に行こう。ミサに出て歌を唄えば炊き出しのゴハンが食べられるから』って誘われて、ついていきました。
泊まるところは、その人と地下鉄の隅。もともと行く前からお金はなかったので、知り合いが『これでテディベアを買ってきてくれ、残りはいいから』と餞別に3万円くれた残金がすこしあるだけ。それが全財産で、初めての海外旅行で……。
まだほかにも困ったことはあったと思うんですが……。でも、これもそんなに困ったことのランクには入ってないからなぁ……」
──もうそれで十分です(笑)。畠山さんは、なるべくマイナスなことは忘れていく人だというのがわかりました。
「いまお話ししたのも、本当に困ったというほどのことでもなかったんでしょうね。困るというと、生きるか死ぬかというのを思い浮かべてしまう。
でも、ああ、いま思い出しましたが、その立て替えてもらった旅費を返すのは大変でした。
そうなんです。まるまるゴチというわけではなく、立替だったんです(笑)」
その後、畠山さんは米国がミサイルを撃ち込む寸前のイラク危機のときにも訪れている。恐くないのと訊ねると、「恐いといえば恐いですけど」という。
後日。ドキュメンタリー監督の原一男さんがホストのネットTVのゲストに
「そういえば、(大川興業の大川豊)総裁と北朝鮮にも行きましたし、たいていのことでは驚かなくなりましたね」
──戦地になるかもというイラクに行くというときに奥さんは反対しないんですか?
「反対は、なかったですね。
9.11のときも、総裁が行こうというのでニューヨークに10月に行くんですけど、9月17日にうちの子供が生まれているんです。
これは奥さんに止められると思ったんですが、反対されなかったですし、04年のイラクのときも反対はなかった。
唯一、止められたのが原発事故のときで、車に寝袋とか詰め込んでいたら、『どこに行くの?』と奥さんが気づいて、行くのは絶対やめてくれと。
そのときは『ええ!?』と思いましたけど、結局中止しました。行くなと言われたのは初めてのことでしたね」
結局、畠山さんは半年後の10月に福島の取材を始めているが、「やめた期間」に各省庁の記者クラブの記者に限定された記者会見のオープン化を掲げた自由報道協会の活動に忙殺されていた。
──いまでも大臣の会見取材に行かれているんですか?
「総理大臣の会見はたまに行っていますが、いまはなかなか行けてないですね。
総理の記者会見には僕らも入れはするんですが、絶対に当てられない。指名する内閣広報官と目は合うんです。
誰がどこに座っているのか席表を作っていますし。でも、後ろのほうにいる僕らのような人は絶対当てませんね」
──民主党政権時代に畠山さんたちが活動したことでオープン化が進んだ部分はありましたが、自民党政権になって、また元に戻ったりしたんですか?
「戻ったところもありますが、戻りそうになると抗議をして、フリーの記者が入れる状態はキープしています。
大臣が代わると、新しい大臣の考えでどうなるかわかりませんと官僚は言うんですが、『ほとんど前と同じようにやります』というふうになっていますね」
──その後、記者クラブの記者さんたちの意識が変わる兆しは?
「うーん。いまはフリーよりも東京新聞の望月さんのほうが厄介だと思っているところがありますよね。彼女は社会部の記者で、記者クラブの記者じゃないですから。
いまでも大臣に質問するには、事前に『質問取り』というのがあるんですよ。『きょう、どんなことを質問しますか?』と聞かれる。僕は『その場にならないとわかりません』と教えないですけどね。
以前と変わったことは、時間があれば当てられるようになったことですね。
最初は参加が認められても『オブザーバー』で発言は許されない、という立場でしたから。総理大臣の記者会見は、そもそもフリーは当たることがないので、質問取りもされないですけど」
──そうした記者会見取材はフリーだと、どこに記事を発表されるんですか?
「週刊誌の取材記事の裏づけや、特集記事に使うコメント取りですね。
そういう取材も基本は一人でやります。僕の場合、取材班みたいなかたちで、チームでやるということはほとんどないです」
──そういう記者会見の取材をフリーのライターが個人で続けるというのは大変ですよね。時間もかかるし。
「大臣会見に出るのを続けるというのは、時間的にも体力的にも大変は大変です。取材しても文字にしないとお金にはならないですし。
ただ、必要になったときに会見に入れない状態だと悔しいので、長い目でやっていたということはあります」
──畠山さんの視点の面白いところは、たとえば『記者会見ゲリラ戦記』(扶桑社新書)を読むと、大臣の記者会見が記者クラブに独占されている制度を問題にしながらも、一つ一つの取材記事から読み取れるのは、それぞれの大臣の個性なんですよね。
大臣会見のオープン化にあって、本来保守の亀井静香さん(当時は金融担当大臣)はどんどん自由化を推し進めていく。一方で政権の座にあった民主党のリベラルとされる中には、どうにも歯切れの悪いひとがいる。具体化にあたって、大臣個々の個性がよく出ている。そのあたりは『黙殺』における選挙ルポに通じていますよね。
「そうですね。面白い人は、面白い。逆になぜこの人はこんなに面白くないのかと知りたくなったりもしますけどね(笑)」
原一男監督のネットTVのスタジオ放映中
そういう話をしているうちに二軒目の書店さんがある志津駅前に到着した。移動に2時間半。インタビューはクルマの中でないと、たぶんまったく違う話になったかもしれない。
書店にあるフロアに向かうと、『黙殺』の担当編集の長谷川さんが待機していて、「いい場所に平積みしていただけています」と長谷川さんが笑顔をみせる。初めて訪問する書店さんだけあって幾分緊張気味の畠山さんが安堵した様子だ。
コートを脱いで「本人」と書かれたタスキをスーツの上にかける。
「これは二代目で、最初に買った安いのは取材を受けるたびに使っていたらすぐにダメになったんですよ。それで、候補の人たちが頼むところで作ってもらいました」
一見量産品に見えなくもないが、布生地が分厚く、しっかりとしたつくりだ。一つ8000円だという。
「高いですけどね(笑)。
今回の本はいろんな人の助けで出来た本なので、やれることは一生懸命やろうと。『やるんなら選挙運動っぽくやったら』と言ってくれた人がいて、それはいいなと。
郊外の書店からだんだん都心の書店を攻めていくというのも小沢一郎戦略で、川上のおじいちゃん、おばあちゃんしかいないところで、ビールケースに乗って演説を始めていくのに習いました」
オシャレとは言いがたいやり方だと言うと、「オシャレとは無縁の人生なので」と返された。『黙殺』に関わる取材の際や、書店営業に出かけるときは必ず一着限りのスーツにタスキ掛けと決めているという。
「編集の長谷川さんと『この本に関しては、きちんとスーツでやりましょう』と決めたものですから。
記者会見めぐりをするようになったときに、ボタンのジャケットを着るようになりましたが、ふだんの選挙取材のときはラフなトレーナーとかTシャツが多いです」
──夏はサンダル履きだとか?
「はい。夏は雪駄ですね。そういう記者は僕だけだと思っていたら、北海道に小笠原淳さんという記者の方がおられるんですね。
小笠原さんと知り合ったきっかけは、僕が『週刊プレイボーイ』に“外務省の記者会見にフリー記者が初めて入った”という記事を書いたところ、小笠原さんが読まれて編集部に電話をしてこられたんです。
小笠原さんは『北方ジャーナル』などに書いている人で、僕のことを取材をしたいと言われた。
それから、ちょくちょく会うようになったんですが、僕が雪駄で待ち合わせ場所に出向いたら、小笠原さんも雪駄。『冬もこれです』と言われたときは、負けたと思いました。
小笠原さんは飄々とした人ですが、昨年『見えない不祥事ーー北海道の警察官は、ひき逃げしてもクビにならない』」(リーダーズノート出版)という、すごい本を出されています」
──ところで、畠山さんは、地元の本屋さんにも声をかけたりされるんですか。
「いえ、黙って見ているだけです。書店の検索機で『黙殺』を検索して出た画面を表示したままにするぐらいで(笑)。
前は地元の書店に自分の本がお店に本がなくて、かなしくなりましたが、いまは置いてもらっています。でも、営業はできないですね。
ちょっと気恥ずかしくて。行ってはチラチラと見て。いまだに声をかけてもいいものかどうか」
──わたし、昔書店員をしていたんですが、作者の方から声をかけられると嬉しいものですよ。
「どういうふうなアプローチがいいんでしょう」
──忙しくないようだと「著者なんですが、どうですか反応は?」と聞かれるのがいちばんかと。本にサインをさせてもらえるかどうは別にして。話しかけられて嫌な感情はないんじゃないかなぁ。
「僕も、他人の本だと『この人が書いたんですよ』と横から書店員さんに声かけしたことはあるんですが、なかなか自分の本になると、そういかない。自分のことになるとからきしダメですよね(笑)」
──でも、畠山さんは営業が上手ですよ。腰が低いのに、なりゆきで店頭にある本にサインさせてもらえるまでにもっていっている。
「そこは、探り探りですよね(笑)。
もしかして一軒目(くまざわ書店アカデミア菖蒲店)の店長さんから、『一冊ならサインしてもらっても売れますから』と言っていただけたのは、あれは残ったらご自分が買われるということなのかなぁ。
売れたらいいんですが、そう思うと、心配になってきましたね」
畠山さん、二軒目のときわ書房志津ステーションビル店で色紙にサインと本にサインをさせてもらいながら、店長さんに今回のように直接著者が電話をしてきて訪問することについて質問していた。
「作家の人にわざわざ来てもらえるというのは、どこの書店さんも嬉しいことだと思いますよ」と日野店長さん。
「どういうふうに声をかけるのがいいんでしょう」と畠山さん。
「そうですね。事前にお電話などいただけるといいですね。あとは、やはり営業の方を通していただけると話は早いかもしれません。作家の方から直接だとびっくりしますからね」
サインをし終えると、「絵づくりが必要でしたら、掃除をしていただけますか?」と店長さんから声をかけられ、「本当にいいんですか」を三度も繰り返す畠山さん。“販促になるなら何でもさせてください。掃除でもなんでも言いつけてください”というツイッターを見てもらえていたようだ。
なんだか演歌歌手のレコード店めぐりみたいに、店舗での滞在時間は20分くらい。移動のほうが時間がかかったし、埼玉から千葉へ長距離横断するなど、決して効率のいい販促活動とは言えない。それでも、畠山さんが20年間続けてきた選挙取材も「効率から外れる」ということでは通じているように思えた。
雑誌に載った書評やインタビューはもう数十にもなる。久米宏さんや大竹まことさんのラジオのゲストにも出た。しかし、残念ながら『黙殺』は爆発的なヒットというところまでは達していない。
「スポーツ新聞は、ほぼ全紙取り上げていただけたんですが、全国紙はこの前の毎日新聞が記念すべき初掲載。できたら、朝日読売日経に載りたい。
政治部の記者さんたちも読んではくれているんですよね。『これまで黙殺してきた側としては複雑な心理はあるけれど面白いし、反省するとこもある』と言っていただけて。『「泡沫」というのは確かによくない言い方だな』ということも言われていましたね」
今回はほとんどがインタビューイが運転する車中という変わった形式だったが、一日密着する前は「なんだか恐そう」と先入観があったというカメラマンの山本さんが、けっこう面白がってカメラを向けていた(前回に現場写真を掲載しています)。
それにしても、最後まで「です」「ます」は変わりない。畠山さんの『黙殺』出版に際して大川豊総裁と対談している動画をネットで見たことがあるが、そのときも「です」「ます」だった。無理をしているというわけでもない様子で、きちんとした会話が苦手なわたしは、いいなあと思った。
番組の終盤、畠山さんから「本人」タスキをかけられ、最新作『ニッポン国VS泉南石綿村』(3/10から全国ロードショー)のPR演説をはじめた原監督を撮る(モノクロ写真撮影のみ朝山)
後日、畠山さんの取材の場での距離感が気になって、ドキュメンタリー映画の原一男監督がやっているネット番組「CINEMA塾」のゲストに呼ばれたというので、見学に行ってみた。
相変わらず、ここでも「です」「ます」だった。
面白かったのは、勧められて原さんが例の「本人」タスキを付け、アドリブで街頭演説ふうにしゃべりはじめると、畠山さんも立ち上がり、いろんな角度から手持ちのカメラで撮影をはじめた。煽られるように原さんの弁舌が滑らかになる。面白いハプニングだ。
放映を終え帰り支度をしている畠山さんに、原さんが、対談中に背景に貼っていた『黙殺』の宣伝ポスターを「これ、高いんでしょう」「そうです、そうです。一枚1000円はするというので、ちゃんと返しに行かないといけなかったんです」と足を止め、くるくると巻き始めたのだった。
【追記】
畠山さんが、学生時代の友人のお墓参りをした話をされたのは唐突でした。たぶん畠山さん自身が運転するクルマの中のインタビューだったからかなぁと。
クルマという密室は、記憶を遡らせるには適した空間のようです。「情熱大陸」が手法として使いたがるのもわかる気がします。今回、大学時代のご友人の名前を書き残すかどうか、まとめにあたって畠山さんと相談しました。
自死という亡くなられた方だったので、ご家族に心労をかけたくない。「Mくん」ではどうでしょうかと提案を受けました。以前、畠山さんが友人のことを文章にしたときにも「Mくん」とされたそうで、ご両親には後日文章にしたことをお伝えしたそうです。その丁寧な対応に人柄を感じました。かかわりあったひとたちが、畠山さんを応援したくなるのはこんなところにあるのでしょう。
やりとりのなかで畠山さんからもらったメールに、突然の訃報に接してお線香をあげにいった畠山さんたちに、ご友人のお父さんが、
「わざわざありがとう。なにもないところにきてくれて。そうだ。近くに立派なヘビセンターがあるから、帰りにぜひ寄っていって」と何度も勧められたことを思い出しました、と書かれていました。
足を運んでもらったのにほかに観光するところもないからということだったみたいですが、わたしが最近好きな小説家の滝口悠生さんの一場面のようで、気持ちの伝わる逸話だと思いました。そんなこともあり、ご無理を言って名字だけは記すことにさせていただきました。
(おわり)