「ウラカタ伝」

ふだん表に出ないけど、面白そうなことをしているひとを呼びとめ、話を聞きました。

ふたたび音楽を聴きたくなった佐藤さんの話

 わにわにinterview③島根と福島のハナシ 

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島根県松江市在住のシンガーソングライター、
浜田真理子さんに話を聞きました【4/6】

(あらため、 
真理子さんから、じゅずつなぎ)
福島県相馬市で「みんなのしあわせプロジェクト」を立ち上げられた

佐藤定広さんに話を聞きました(前篇)
インタビュー・文=朝山実
撮影©山本倫

浜田真理子さんの記事の最初から読み直す

waniwanio.hatenadiary.com

 

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 福島県相馬市に暮らす佐藤定広さんにお会いしたのは、「みんなのしあわせ音楽会vol.2」の会場だった(前回の記事)。
 松江でのインタビューを終え、浜田真理子さんが歌っているところを撮りたい。歌っている本業の顔も必要だよね、ちゃんとカメラマンに頼もう。どこがいいか。なるべく東京の近くがいいなと算段しつつ、福島県で手づくりのコンサートに参加するというのを知り、それがいいかもと思った。
 理由のひとつは、「音楽会」を企画した佐藤さんが、震災のあった年の3月17日の行われるはずだった浜田真理子のライブのチケットを保存しているという話を聞いたからだった。
 もうひとつ。佐藤さんが、浜田さんたちが続ける「スクールMARIKO」のゲスト講師に招かれ、松江に行ったという話をきいたことにもこころが動かされた。
 行けば、何かひろがりのある話が聞けるのでは。ルポの仕事をしてきた習性で、現地で佐藤さんにも一言コメントをもらっておこう。
 それぐらいのことだった。けれども……。


佐藤定広(以下同) マスコミだけじゃ伝わらないものがあってね。モンモンとしていてね。何か自分たちでしないというんで始めたんですよね。

「音楽会」の会場には、佐藤さんが仲間を集ってはじめた「そうま・かえる新聞」というコミニティ・ペーパーが置いてあった。題字下に「福島県相馬市・南相馬市の今とこれからを伝える」と記されている。2015年9月発行にされたもので20号。もうすぐ21号が出るらしい。

── 「かえる」というと、ケロケロっというカエルが思い浮かぶんですが、やはり「もどる」のほうの意味を込めているんですよね?

 最初は、無事帰るという。もともとは、お母さんたちが、いわき市で「かえる新聞」というのを作っていて、放射能のことをね、きょうは洗濯物は干してもいいかどうか、というようなことから考えていこうとしているのを見ていて、相馬でも新聞を作ろうかとなったんですよね。たまたま、まわりにいた音楽好きとでね。

── 音楽つながりなんですか?

 そう。でも、震災直後はね、音楽が聴ける状態じゃなかったんですよ。ぜんぜん。もう、生きるか死ぬかという状態で、町から音楽が消えたんですよ。まあ、ここもね(音楽会の会場の相馬市総合福祉センター・はまなす館)、避難所になっていたんですよ。ホールのなかも。そういう状態だったから……。

── 今回、島根の浜田真理子さんをコンサートに呼ばれたとのは、どうしてなんですか?

 呼ぶというか、とくに深い意味はないだけど、浜田さんはずっと福島のことを気にかけてくれていて、それはミュージシャンとしてどうのではなくて、ひとりの島根に住む人というか、日本に住む人として真剣に考えてくれている。それで、原発ハンタイとかいう運動をされている人でもなくてね、気持ちがわかるというか。だから、ここを一度見てもらいたいというのがあってね。
 一回、島根に行ったことがあるんだけど、あのときは(松江の様子が)しあわせすぎてね、これは伝えようとしても、あんまり伝わらんないんですよ。アッ、ハハハ。もう、ぽぁーんとしていてね。

── 佐藤さんたちがいまいる相馬の日常からすると、違う世界にやってきたように思えたということですか?

 そうねぇ……。「ここじゃ、話してもなかなか伝わらないかなぁ。じゃ、一度、浜田さんに来て見てもらったらどうか」というのがあってね。
 もう見てもらったらわかると思うんだけど、ここには元気な人もいるし、障害をもった人たちもいるしね。一方的に、元気をもらうような、かわいそうな人たちじゃない。ふつうの人が、ふつうに頑張っていますよというというのを見てもらいたい。知ってもらいたい、かな。福島のいまの状況をね。


── 自分たちが外に向けて発信するだけでは、限界があるということですか。

 やっぱり、来てもらわないと、この状況はわかってもらえないかもしれない。
 たとえば、仙台から相馬に入るんじゃなくて、福島からバスで南相馬に入ろうとすると、途中に飯館村を通るんですよ。黒い袋が山積みになっているのを見てもらうだけでも、感じてもらえるんじゃないかなぁ。
 島根に行ったとき、浜田さんと一緒にやっているひとたち(スクールMARIKOのスタッフ)の目線がね、上からじゃなくてねぇ、見てもらえたらなぁというのがあったから。

── 佐藤さんがゲスト講師に招かれて松江に行かれたのは、いつのことですか?

 あれは去年だったかな。反応はよかったんですよ。真剣に聞いてくれるんです。それでも、温度差はあってね。伝えるって、ホント難しいなぁって。キビシイなぁって。
 ほかのところにも出かけて行って話したりするんだけど、共通の基盤がないと。映像とか、見せたりはするんだけどねぇ。

── 佐藤さん、急ですが、明日はどうされています。時間ありませんか?

 ああ。明日はねぇ、これ(音楽会)の片付けが残っていると思うから。午前中は、かかりきりだと思うんだよねぇ。午後からなら、すこしだったら時間とれるかもしれないですけど。


 おそらく、ふだんの雑誌の仕事だったら、会場での立ち話で終わらせていたように思う。つなぎのコメントが取れたら、誌面の構成的には充分と判断できただろうから。つい無理を承知で、「浜田さんに見せたかった場所の一部でも、案内してもらうことは可能ですか」と頼み込んだのは、おっとりした佐藤さんの口調に惹かれたからだと思う。わざわざイベントへの参加してもらうように声をかけておきながら、ちょっと口ごもり「特別な意味はないんだけど」とこたえる感じも。

 翌日の昼過ぎ、撤収作業をおえた佐藤さんのクルマに便乗させてもらい、相馬から南相馬市に向かった。インタビューは、ハンドルを握る佐藤さんの隣に座り、おこなった。「情熱大陸」みたいだ。

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 ☝「みんなのしあわせ音楽会」の打ち上げ。立ち上がっているのが佐藤さん。ハマダさんはどこだ?

 

 

佐藤さんとゆく、国道6号線

佐藤定広(以下同)  3月17日にね、福島で浜田さんのコンサートが予定されていたんですよ。きのう一緒に手伝ってもらったモリタミュージックの森田さん(相馬市内で一軒きりのCDショップ店にして、音楽イベントのプロモーター)から、たまたま浜田さんのCDを聞かせてもらって、これは行こうと思って、チケットも買っていたんです。だけど、震災があって行けなくなったのがきっかけですね。

── チケットは、いまもお持ちなんですか?

 ああ、持ってます。嫁さんのと2枚。でも、3.11があって、もう行けなくなって。

── チケットの払い戻しとか、考えたりはしなかったんですか?

 もう、あのときはそれどころじゃなかったですから(笑)。仕事もぜんぜんできないし。福島全体がね、もう、それどころじゃなかったですから。海のほうは壊滅状態だったしねぇ。
 きのうも、ちょっと言いましたけど、音楽が聴ける状態じゃなかったですから。みんながね。戦争のようだというか。……ことばでは説明しにくいんですけど、町の半分は消えてなくなってしまって、音楽を聴く雰囲気じゃなかったね。

── どれぐらいしてからですか、音楽に接するようになったのは?

 ……一ヶ月くらいかなぁ。
 それまでは音楽を必要としないというのか。きのう唄ってくれた、(掘下)さゆりちゃんなんかもね、仮設の避難場所になっている学校に行って、ボランティアで子供たちに唄を歌ってもらったりしたんだけど、それも一ヶ月くらいしてからだったと思うなぁ。彼女は、いまは結婚されて移られたけど、当時は相馬に住んでいたのでね。

 小学校に行って、千三百人の子供たちと一緒に歌ってCDを作ったんだよね。そのときにうちの娘が小学校の5年生で、たまたま参加していて、「へぇー、こういうひともいるんだぁ!」とびっくりして、そこからかな。(当時の堀下さんのブログ☞こちら)
 モリタさんのCDショップで、音楽が流れるようになったときは、「よし!」と思った。ほかにも、いろんな人とね、相馬から何か発信していかないといけないよ、というんで集まり「かえる新聞」を始めるんだけど。津波の被害というよりも、原発のことが大きくてね。南相馬の人口は7万人だけど、原発が爆発してから一端避難し、またさらに避難しなくちゃならなくなって、6万人が避難したんですよ。

── 7万のうちの、6万人ですか。

 そう。これから行く小高はね、原発から20キロ圏内で、強制的に避難しないといけない区域なんですけどね。当初は、30キロ圏内は「屋内退避」に指定されていて、危ないから外に出たらいけないよということで、「換気扇の蓋は閉めろ」とかね、いろいろ言われるんだけど、そうなるとマスコミがいっさい入らなくって、物流もストップして、食料も入ってこない、ガソリンもない。「俺たちどうするんだい!」って状況で、病院も20キロは二日目には避難となったなんだけど、30キロは中途半端で。
 福祉施設とか病院は、食料の備蓄が三日分はあったんだけど、それが尽きるとこれはもう無理だというんで南相馬市長が、ユーチューブで全世界に訴えるということがあったんだけどね。避難できるひとは避難してくださいと言うんだけど、移動のできない病人は取り残されるかたちになって、残った1万人はあと、役所の人とかですよね。

── 佐藤さんが関わっておられる福祉施設の子供たちは、どうだったんですか?

 全員避難しました。ただ、避難所に行っても難しいところがあって、生活していくのにね。一次避難所から、さらにまた避難してというのを五回、六回繰り返したり、親戚の家にいったりとかして。そこでも人間関係がね。「あんたら、いつまでいるんだぁ」みたいになって、気まずくなり、結局は疲れて戻ってくるひとが多くなって。それがひと月ぐらいのことですよね。それでもう、疲れ果ててね。

── そのとき、佐藤さんは?

 ああ、わっしは、相馬なんで。避難の区域の外だったんですよ。原発が爆発したときは、嫁さんの実家が仙台で、そっちに行こうかとも思ったんだけど、仙台は水道とガスがダメだと言うんで、わっしは避難しなかったんですよ。
 そのうち、施設のほうは利用者の人たちが避難生活に疲れてね、みんな戻ってきたので、再開をせざるをえないというかね。テレビで、避難した人たちが温泉に浸かって、よかったわ、なんていう場面が流れたりしたけど、そんなことは一時のことで、あれは遊びに行くからこそいいんで、ずーっとそこに避難するというのは苦痛ですよね(笑)。

── それはそうですよね。

 それで四月、五月と戻ってくる人が増えてきてね。

── もともと佐藤さんは、施設とはどのようにして関わるようになったんですか?

 わっしの娘がダウン症で、親の会がつくった法人の施設なんですよ。

── 浜田さんから、佐藤さんは一級建築士だと聞いたんですが。

 わっしね、一級じゃないです。二級建築士で、一級は施工管理のほうです。施工管理というのは、現場監督なんです。

 

 

  ☟佐藤さんが関わっている「えんどう豆」のひとたちのステージの一コマ。

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 佐藤さんは「わっし」という。会場での立ち話のときは「わたし」だったかもしれない。深刻な話をしながらも「っ」の入った声は穏やかで、笑い顔をのぞかせる。「わっし」はときどき「わぁっし」と伸びる。やわらかな響きはテープ起こしをしていても、耳に心地良かった。
 確認のために原稿を送ったら、佐藤さんは、その「わっし」の文字にしばらく
落ち込んでいたらしい。ずっと自身では「わたし」と発音してきたのに、そうなっていないことに初めて気づいたという。もちろんこちらに悪意がないことは、あらためて佐藤さんにお伝えした。
「わたし」「あたし」「俺」「ボク」「わちき」「あっし」「せっしゃ」「オイラ」……ひとにはさまざまな自称があり、響きを含めそこに自意識や人柄がでる。問いかけ、聴いたことばを文字にするインタビューライターとして、そこは大事にしたかった。でも、佐藤さんの気持ちもわかる。でも、一度見せた原稿をいじるのもいやなので「わっし」でいきます。もとい。


 それで、一級建築士の勉強をしていときに、子供がダウン症をもって生まれたもんでね。頭の中が、障害者のほうの勉強にウェイトが大きくなってね。

── 仕事が手につかなくなったということですか?

 手につかないじゃなくて、自分の興味なんだろうね。わっし、児童相談所というところでバイトしていたことがあるんですよ。福祉には興味があったんです。

── 建築の仕事をされる前ですか?

 前です。大学を卒業してからね。だから、もともと興味はあったんですよ。

── 子供さんが生まれる前のことですか。

 生まれる前です。実際、子供をもって、「あれーぇ?」って。フフ……。最初はね、これは不幸になったのかなぁ。「あらぁ、貧乏クジ引いちゃったかなぁ」という感じもあったんですよ。
 ところがね、ぜんぜんそういうことは、ない。

── それは最初のお子さんですか?

 ひとり目です。

── お子さんは、お一人?

 いえ、三人です。二番目は、勉強大好きな子でね、三番目は好き勝手やっている。ハッハッハ。あのぅ、後ろに座られている方みたいな感じかなぁ(笑顔でミラー越しに後部座席のカメラマンの山本さんを見やる)。カメラマンとして、いいセンスをしているんですよ。

── へぇー。それぞれ年齢は?

 上の子が高3で、二番目が中2、下が小5かな。

── いちばん下の子がカメラマンなんですか? いいですね。

 そう。アーティスト系でね。でも、この頃はちょっとツンツンしだしてね(笑)。

── こういう質問もなんですが、ひとり目が障害をもって生まれてきたときに、次の子を躊躇するというか、不安に思うということはなかったんですか?

 なかったですね。いまだと遺伝子検査とかして、(障害がわかると)半分くらい中絶したりするのかもしんないけど。嫁さんとね、そんな検査はしないと決めて。命を受け容れましょうと。いちばん上の子で、覚悟ができたから。
 でも、最初はねぇ、呼ばれていったら、嫁さんがもう泣きはらしてるしね。病院でね……あれは、もうちょっと忘れられないなぁ。

── あのぅ。気持ちが沈んでいたのは、どれぐらいの期間だったんですか?

 事実をどうやって受けいれるかは、本当にひとそれぞれなんですが、わっしの場合は、「最初の一週間くらいは暗かったよぉ」と言われた。

── 暗かったと言われたのは奥さんから?

 いや、それは友人です。

── その気持ちが切り替わるというのは、何かあって変わってゆくんですか。


   それは子供の指がね、(自分が)指を出したら、握り返してきたときかな。あのとき、スイッチが入った(笑)。

── ああ、なるほど。


 
そう、そっから。わっしの場合はね。でも、それで離婚したりした人もいるから。
 障害はあったけれども、あの子のおかげで人生が面白くなったというか。不思議なもんで、こうやっていろんな人に会うことができたし、考え方もねぇ。
 

 佐藤さんは、まっすぐに前を向いて運転している。会話はゆったりとしたものだった。どこかへピクニックに行くかのような。長女のダウン症について語るときも、ゆったりとしている。ほんのすこしだけ、変化があったのは、赤ん坊が自分の指を握り返してきたというときに、前方に視線を向けながら、右手の人差し指をワタシのほうに指しだし、左手の指で包み込むしぐさをした。その一瞬の動作を示したときに、つよく印象に残る笑顔になっていた。
 

 友人が、あのときは暗かったよというくらい、一度は落ち込み。そこから立ち直るというか「スイッチが入る」までがリアルだなぁと思った。いろんなものが渦巻いていたのだろうなぁ。ただ、運転している時がそうだったように、スイッチが入ってからの佐藤さんは前だけを見てきたひとなのかもしれない。

 しばらく車中は沈黙。
クルマは国道6号線を南下し、南相馬へ入っていく。
 ワタシは、ハンドルを握るその横顔をしっかり確かめながら、「人間って、変わるものなんですか」とたずねていた。

 

つづく☟

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