「日本に帰りたいよ」と娘には泣かれましたけど。
【わにわにinterviewウラカタ伝⑨】
赤いランドセルの中年男に聞く【2/3】
インタビュー・文=朝山実
写真撮影 © 山本倫子
前回を読む☞友人が「ランドセル男」になって戻ってきた
「よく『リサーチとかしてから向こうに行ったんですか?』と聞かれましたが、ぜんぜんしなかった。当初、定住を条件に、金額的にも内容的にもすごく恵まれた仕事の話が決まっていたというのもあったんですけどね」
日本の観光地を紹介するタイのCS番組「DAISUKI JAPAN」。制作しているのは、タイ移住13年の奥野安彦さんだ。
現地法人の従業員は現在12人。日本人は、妻でジャーナリストの佐保美恵子さんと奥野さん。あとはタイの20代から30代の若者たちで、妻帯者は3人。「社長」たる奥野さんの両肩には、日本でフリーの写真家だった頃よりも重い責任がのしかかっている。とはいえ、持ち前のひょうきんさを失わない。それは彼の強みでもあるのだろう。
👇「DAISUKI JAPAN」
奥野さんが一家でのタイ移住を決めたのは、海外情報の需要が高かった時代。日本を出ていく際に支えとなった仕事は契約期間の2年目に、日本企業の社内事情で打ち切りとなった。大ピンチ! 加えてタイは、クーデタが繰り返されるお国柄だ。
なんとかして、新たな次の仕事を掴んだものの、一息ついたところに政変不安が襲い掛かり、向こう半年ぶんの仕事が吹っ飛んでしまう。そんなことは度々。奥野さんがテレビでタレントまがいに、日本オリジナルの「ランドセル」を背負って出演するのには、起死回生の思いが込められていた。
今回は、奥野さんがタイへ移住するまでの流れをもうすこし詳しくきいてみた。
「神戸の震災があったのが95年の1月17日で、すぐにライターの土方(正志)と現地に入り、後に震災の写真集を出し、長野で冬に開催されたパラリンピックを撮影し、それも写真集にした。さあ、次に何をしようか。テーマを探していたときに、知り合いだった松本のお寺のお坊さんから『タイに一緒に行かないか』と誘われたんです」
知人の住職が訪ねようとしていたのはHIVの患者さんの施設だった。このとき奥野さんは、チェンマイでHIVで親を失うなどした子供たちを預かっている日本人女性の存在を知る。名取美和さん。父親は報道写真の草分け、名取洋之助氏だ。
「美和さんがチェンマイでやっている孤児の施設で写真を撮り始めるとともに、何か応援できないかというので、六本木で僕が撮った写真と子供たちが描いた絵の展覧会をやったんです。そのときにいろいろ声をかけたりしたなかに岩波書店の編集者がいて、いま考えているシリーズの中の一つとして、写真集を作ろうという話になった」
岩波フォト絵本の『ガジュマルの木の下で 26人の子どもとミワ母さん』(02年)がその本だ。(前回で奥野さんが撮った写真を紹介しています☞読む)
「そういうこともあって、チェンマイに何回か通ううちに、ある日本の大手企業が母体となったCS放送局で、アジアの情報番組をつくろうという話があり、声をかけてもらった。
当時は海外の情報を盛り込んだテレビ番組がヒットしていたのもあって、現地に定住できる人を探していたんです。コストを考えたら、取材の度に日本から出掛けていくよりはそのほうがいい。契約は一本が180万円だったかな。制作経費だけで百万くらいかかったけど、毎月作って送ってくれという話だったので乗ったんです」
──しかし、一家で移住となると家族の反対みたいなことはなかったの?
「(妻の)佐保は、子育ても一段落したし、そろそろ海外に出たいと思っていたときだったので。というか、もともと彼女はジャーナリストで、日本よりも海外が合うタイプということもあって、彼女のほうがわたしよりも前向きだった。
それで、テレビ局から、アジアのどこがいいかと聞かれ、『タイに行きます』。ふたりの間ではすぐにそこまでは決まったんですが、行ってから、長女が小学5年生だったのかな、『なんでこんなところに来ているか。帰りたいよ』と何度も泣かれました。
美和さんの施設には、それまでにも子供たちを連れて行ったりはしていたんです。学校はインターナショナルスクールにしたものの、言葉のこととかもあって。でも、一年くらいしたら、面白くなったみたいですけど」
下の息子は当時5歳とあって順応は早かったというが、上の娘は友達との別れや新たな環境にはすぐにはなじめず、当時は「むちゃくちゃな親」だと恨まれていたようだ。
──娘さん、よくグレなかったね。
「そうねぇ……。ただ、このまま日本にいることとタイに行くことを考えた場合、留まることのほうがリスクが大きい。その思いはつよかった。
新しい物語を作り出そうとすると必ず困難は付きまとうものだし、このまま日本にいた場合の10年後、環境はより悪化しているだろうという予測があったんですよ」
──カメラマンとしての仕事はいっそう苦しくなっているということ?
「そうですね。だったら、ここで自分の思い描く仕事ができなくなる前に、行動を起こしたほうがいいだろうと。というのも、カメラマンとしての仕事自体どんどん少なくなり、それまで雑誌媒体で出ていた経費にしても、『今回は奥野さんだから出しますけど、若い人にはもう出せなくなっているんですよ』と言われたのが大きかったかな。先がないなと。
ドキュメンタリーを撮りたい。そういう希望はあったけど、仕事として考えてみた場合、家族を食わせるだけの稼ぎは今後もう難しいだろう。そう思うと……」
☝「DAISUKI JAPAN」の取材で埼玉県飯能市の茶畑を訪れた
バブル経済が破綻したのを境に、長年仕事をしてきた週刊誌や月刊誌の頁単価のギャラがダウンするとともに、取材費が削られていった。写真集を出したが、ドキュメンタリーとなると書評で取り上げられはしても、なかなか売れない。悪循環に陥っていた。
「いま思えば、僕らが仕事を始めた80年代の終わりから90年代前半というのは、フリーランスにはいい時代だったんですよね。雑誌は右肩上がりだったし。
たとえばアパルトヘイト政権の時代の南アフリカに半年取材に行きたいと言うと、ギャラとは別に数社と交渉すれば、まとまった経費が出た。一度そういう時代を体験しているというのがあるからかもしれないけど、先を見据えてみたときに写真ではもう食えないというのが実感だった」
──家族の賛否はわかったけど、周囲の反応はどうだったの?
「佐保のところは、お父さんはもう亡くなっていて、お母さんから『自分たちを捨てるのか』みたいなことを言われたりしたみたいです。つまり、一度海外に出て行ったらもう日本には帰ってこないんじゃないかと。
オーバーだなとは思いましたが、たしかに仕事がなくなってきている場所に、もう戻りようがないだろうと思ってはいました。それに、行くからには何としても仕事を発生させないといけない。そういう気持ちもありました。ただ、基盤となるテレビの仕事が2年で打ち切りになって、どうしょうとなるんだけど……」
──移住した海外で支えがなくなって、どうしたんですか?
「当時作っていたそのビデオ番組というのが、タイのテレビCMはどうやって作られているのかというものや、タイの国技ともいわれるムエタイはどういう人たちがやっているのか、象をとても大事にする国で、ゾウ使いの生活はどんなものかをレポートするものだったんですよね。
そういう日本人が不思議に思うことを取材する中で、たまたまJETROのバンコク所長にインタビューする機会があったんです。JETROのバンコク所長というのは通産省から出向してきた、日本では課長クラスの人が多いんですけどね」
日本ではそういう立場にある人物と商談をする仲となるまでにはいくつものステップが必要となる。タイの利点は、組織のトップとダイレクトに会うことができることだという。
奥野さんの持前の楽天性と仕事に対する熱意が伝わったのだろう。「たまたま」がきっかけとなって、JETROのニュース番組を作る仕事が決まった。
「まず最初にやったのが自動車産業のレポートです。タイのデトロイトとも呼ばれる、自動車部品を作っている下請け工場の状況を取材してほしいという。
のちのち、この仕事が現在のウチの会社の根幹にもなっていくんですが、タイで自動車部品のバネを作っている日系企業を取材したら、そこの社長さんがたまたま僕と同じ関西出身の人で、『オタクら、なんかおもろいビデオ作れるんかいな』とアクのつよい口調で言われたもんだから、『まかしといてください』と(笑)。もちろん、その時はまだビデオは始めたばっかりでしたけど」
奥野さんが提案したのは、俳優の田口トモロヲの語りでヒットしたNHKの「プロジェクトx」の「あの感じに」に似せたものを制作する。
「制作費は1300万円だったかな。ベタなパクリですけど。でも、僕らは徹底的にインタビューしたんですよ。ぜったいこれは成功させるという意気込みで。
スタッフは、インタビューを佐保で、撮影はわたし。ここは勝負だと思った。話を聞いた対象も、会社の幹部から技術者から百人ちかい。『アンタたち、また来たのか』と言われるくらい通いつめました。
ちょうどタイのバーツ暴落で会社が大変だったときでもあり、そこから如何に立ち直ろうとしたのかを進行形の物語ふうにつくったんです。検証から始め、再現ドラマを入れ、一年がかり。ほんとうに「プロジェクトx」を作るつもりでやったんです。
おかげで完成したものを見て、社長をはじめ、社員みんな泣きましたよ。ああ、俺たち、こんなに頑張ったんだ、という確認ですよね」
──そうか、あの番組には自己確認という要素も大きかったんだよね。
「たしかに、仕事を発注してくれたその社長も、会社(本社は日本)を飛躍的に成長させた中興の人で、僕らも長期で取材していると会社の弱点が見えてくる。ここをこうしたほうがいいんじゃないですか。僕が提案すると、『おお、そのとおりやオクノさん。いま話してくれことを社員みんなに教えてやってくれ』というんで、次は従業員向けのビデオを作ることになる。そういうふうに仕事がつながっていった」
奥野さんは語りながら手振り身振りが加わる。風貌といい、口調といい、「ナイスですねぇ」が決め台詞のAV監督の立身出世伝を聞いているみたいだった。そう話すと、「まあ、当時はほんとうに必死だったから」と笑うのだった。
結局、関西弁のオシのつよい社長さんのつよい引きで、さらに日系他社のパンフレットやプロモーションビデオの制作を請け負うなど取引先が拡大していった。
☝カメラマンとは別にちょこっとした場面をカメラ撮影する
「これはアジアの現地法人の特色だと思うんですが、日本にいたら会社のトップと僕らのようなフリーランスの人間がダイレクトに話をするというのはまずありえないですよね。でも、タイではビジネスの話も間に誰か人を入れたりしないで、直で話を進める。それがむしろふつうなんです。
日本のように大手の広告代理店を通したりすると高くなるというのもあるでしょうし、話が早い。即決です。トップの人柄もありますが、それにどれだけ助けられたか。日本は、何かあったときの責任は誰がとるんだということもあるんでしょうけど。そういう意味でも、発想のベースにあるものが違うんでしょうね」