「ウラカタ伝」

ふだん表に出ないけど、面白そうなことをしているひとを呼びとめ、話を聞きました。

手作り靴「うずら」が生まれるまで

【わにわにinterviewウラカタ伝⑩】
靴職人uzuraさんに聞く【3/3】

f:id:waniwanio:20170904133403j:plain

 

f:id:waniwanio:20150818074131p:plain

インタビュー・文=朝山実
写真撮影 © 山本倫子Yamamoto Noriko

前回を読む☞ココ

  

 合う靴がないのは自分の足がおかしいからなの? 外反母趾やサイズなど、ひとりで悩んできたひとたちの話をじっくりと聞き、「オシャレだってしたいよー」という希望によりそい、高橋ひろみさんは靴づくりをつづけている。

 北海道の釧路に生まれ育った、ひろみさんは都会に出たくて、千葉にある私立大学を受験した。ディズニーランドが近くにあり「毎日、花火が見えるんだ」とわくわくしていた。入学したのは2部の英米学科で、将来は絵本の翻訳の仕事ができたらいいなと思っていたそうだ。

「入ってすぐに翻訳は、自分には無理だとあっさり(笑)。ニュアンスとかを肌で感じないと出来ない仕事だと。じゃあ、留学? 奨学金を利用していて、いまでも負担が大きいのにそれは無理だなぁって」 

 
靴だ!!
 と頭にひらめいたのは大学2年生のときだったという。ひろみさんは、小柄で足が小さい。「合う靴がなくて困っていた」というお客さんの話に親身になるのも、そういうことがあってのことなのかもしれない。子供のころは、週末になると家族の靴をそろえ、靴磨きをするのが楽しみだったのを思い出したのが靴の仕事につくるきっかけとなった。

──靴磨きは、お父さんのものを?

「自分のと、家族のも。そうそう。父の足もめっちゃ小さくて、オーダーまではいかなくとも特注していたみたいです。そのぶん靴を大事にしていたんですよね。ゴルフシューズを下駄箱からたまに出して陰干したり、磨いたりしているのを見ていたのも影響を受けていたかもしれない。
 それで、靴の仕事をするにはどうしたらいいんだろうと調べ始めるんです。

f:id:waniwanio:20170904122101j:plain


 それまで、ものづくりの学校というのは、凡人が行ける場所じゃないと思っていたんですよね。なんとなく。

 それで、『東京で靴を作っているのは浅草です』というのを雑誌か何かで知って、学校は夜間だったので昼間、浅草を歩き回って、それっぽいところを探したんです。当時はまだネットで調べるみたいなこともできなかったので。
 何回か通ううちに、革の材料屋さんみたいなお店を発見したんです。入ってみたら、そこのオジイチャンが話し好きで、『そういうことなら知り合いの靴屋のところに連れていってやろうか』というので、日をあらためて連れていってもらったのが、量産の靴メーカーだったんですよね」
 

 なんか牧歌的だなぁとワタシが感心したのは、親切なオジイチャンとのこと。オジイチャンがこぐ自転車の背中を追いかけて、ひろみさんが貸してもらった自転車でついていく姿が思い浮かんだ。
 その日、面談してくれた社長さんは、ひろみさんに、「大学は卒業したほうがいい。それからでも遅くないから」と話した上で、靴の専門学校があることを教えたそうだ。

「それからも、そこの材料屋さんのところにはたまに行くようになって。行くと革の匂いがするし、楽しかったんですよね。あとになってクラフトの革を使いウェスタンブーツの彫り物をしたりするお店だとわかったんです。
 それで4年生になるのを待って靴学校を受験したんですが、手作り靴がちょうど人気になっていたときで。応募者には美大生もいて、一学年36人の定員に対して2倍。制作の課題があって、ミシンで作ったものにしたら運良く合格できました。
 その報告をしに行ったら、わたしが東京のことを知らないと思ったんでしょうね。材料屋のオジイチャンが『心配するな。お金はないんだろう。住むところはオレが探してやるから』って、通学に便利なアパートまで紹介してくれたんです。
 そこはね、南千住の風呂のない四畳半、トイレは共同という、まあ、ちょっとヘンなところだったんですけど(笑)。すごいよくしてくれて。そこから靴学校に通うんですが、その二年間はすごく楽しかった」

f:id:waniwanio:20170904122420j:plain


 ひろみさんが靴学校に通った1990年の後半は靴の業界の動乱期だった。大手メーカーは安価な労働力を求め、生産拠点を中国やアジアに移し、地場産業の靴工場は窮地にあった。いっぽうで「手作り」のブームもあり、靴職人を目指す若者たちが増えはじめていた。

「当時は学校を出たら、まだメーカーか修理屋か問屋に就職するひとが多かったと思います。わたしも独立してやっていきたいというのがあったんですが、工場も好きで、量産の現場を見てから独立するのでもいいかと思い就職しました。
 50人くらいのメーカーだったんですが、配属されたのが企画室で、外から来るデザイナーさんと話し合い、決まったものを型紙にして工場のラインに流すまでがわたしの仕事。材料を選んだりするのもそうです。
 ただ、企画室とはいっても、社長とわたしだけだったので、靴の木型を削ったりすることも含めて何でもやらせてもらえ、そういう意味では、とてもいい環境だったと思います。
 でも、じゃあ何で辞めたのかですよね(笑)」

 のちのち振り返ってみると、自分の体質が会社に向いてなかったのだという。社長は創業者の2代目で、悪気なく従業員への不満をしばしば口にする。「ストレス」となった背景を聞くと、社長さんは一人きりの直属の若い部下にそれだけ気を許していたともとれる。「40をこすと、わたしも見方は変わってきましたが、当時はねぇ…」とひろみさん。お局様クラスともなれば挨拶ぐらいに受け流しもできたのだろうが、当時はそうするには若かった。度々不満を聞かされたら嫌にはなるのもわかるし、愚痴の類いを真に受けすぎたのかもしれない。

f:id:waniwanio:20170904124727j:plain


「会社そのものの居心地は悪くなかったから、そういうことでもなかったら独立しなかったかも。こういうのをやってみたいというと、『おお、やってみろ』と応援してくれる職人さんもいたし。それで、辞めたいんです、という話になったときに、社長さんから『自分が責任を取る仕事のほうが、君は向いているだろう』みたいなことを言われたんです。ああ、いま思えば、いい社長ではあったんですよね、悪口さえ言わなければ (笑)」

──一緒に「うずら」をはじめることになる、高橋おさむさんとはどこで接点ができたんですか?

「タカハシくんの会社の社長さんは、靴学校の講師をやっているひとで、わたしが在学中にひと手が足りないから『キミ、うちにバイトに来ないかい』と誘われて行っていたんです。場所は目白で、彼はそこの職人として働いていた。
 でも、当時ほとんどしゃべんなかったんですよ。工場のいちばん奥の席にいて、周りを(工具などで)自分の城みたいにしていて、変わったひとだなぁというのが第一印象でしたね。
 それでね、わたしは会社から型紙講習に行かせてもらったりしていたんです。会社が終わってからお金もだしてもらって。そうなんです。社長はそういう教育には熱心だったんですよね。
 それで、講習のときにたまたま隣の席になった女の人が、タカハシくんの会社の新人さんで。わたしが『昔バイトにいったことがあったんですよ』『それじゃ今度飲み会がありますよ』と誘われて行ってみたら、会場はタカハシくんが間借りしていた部屋。6畳が二つつながっている。部屋には彼の持ち物ってそんなになくて、みんなが集まるにはちょうど都合がよかったんですよね。で、そのときに話すと、そんなヘンな人でもない(笑)。
 だから、見かけてから、かれこれ三年ちかく経っていましたね。それで同じ沿線で家も近かったので」

 

f:id:waniwanio:20170904122757j:plain

👆スリッパの乗っかる、招き猫「タビくん」


──タカハシさんとおふたりで「うずら」を立ち上げるというときには、もうご結婚されていたんですか?

「まだ付き合っているけど、結婚とかにはいたらずでした。タカハシくんも、勤めていた会社でずっと職人でやっていくというのは考えてなかったみたい。というのも、社員といっても福利厚生がなくて。会社の状況もよくなくて。だんだん交通費とかも出なくなって自転車で通勤したり、生産が中国に移っていったりしてからは工場も電気代がもったいないというので一週間休みにしますとか。靴業界が大きく変わる時期だったんですよ。
 でも、みんな靴が好きで働いていたので、辞めてもどこか(同じ靴業界の)別のところで働き口を探そうとして、いまも同僚だったひとたちはみんな何か関わる仕事についていますから」

 当時は、靴工場の倒産をよく耳にしたという。

「同業者の知り合いから『自分の道具は今日中に持って出るようにと言われた』とか、『今月は給料が分割なんだよねぇ』という話をよく聞きましたね。
 だから、もともと独立してやっていきたいと思っていたのと、会社にいてもリスク的に変わらないかなぁというのもあって、自分たちで何かしようかとなるんです。だってもうタカハシくんのところなんて部屋に風呂がなくて、近くの銭湯は12時までなんですけど、帰ってくるのが11時半。もうあわてて風呂に行く。しかも朝は7時半に出かけていってという。それで福利厚生はなくて交通費も出ないとなると、社員であることのメリットがあるんだろうかって(笑)」

f:id:waniwanio:20170904132316j:plain


 2004年、ひろみさんが会社を辞めたのに続いて、おさむさんも退社し「うずら」を立ち上げる。しかし独立した直後は、知り合いの職人さんの手伝いや、勤めていた前の会社から人手が足りないときに仕事をまわしてもらうなどしていた。なかでも経済的な支えとなったのがジョッキーブーツの下請けだった。

「競馬の騎手の人が履いている、あの靴って、びっくりするくらい消耗が激しくて、ひとによっては一日でダメになる。そうでなくとも、競馬場ごとに置いておいて外に持ち出すことはできないものらしくて、補充の回転が早いんですよね。その仕事を請け負っていたひとからミシンの部分をやらせてもらっていたんです」

──やれるところをやってということですか。

「そう。フルオーダーだったので、工賃もよくて。一年以上はやっていたと思うんです。その頃はもう『うずら』という名前で仕事をさせてもらっていましたから、そういう取り仕事もやりつつ、あと靴とは関係なしに輸入食品店でバイトもやりつつという。それから展示会をやるようになって、だんだん注文が来だしたら、そのジョッキーブーツのほうの連絡がちょうどいい感じで途切れてしまった」

f:id:waniwanio:20170831175946j:plain


──どれぐらいで「うずら」は軌道に乗るんですか?

「始めてから三年目くらいですかね。初めて展示会をやったのが05年だったかな。もう、ひとに見てもらえて、ああ楽しいという(笑)。
 やったからといって、まだ注文じたいはそんなに入らなかったんですけどね。達成感はあったんですよ。翌年も2回展示会をやり、注文がたくさん入るわけではないんだけど、手ごたえはある。気に入ってくれているなって。そうなんです。わたし、前向きなんですよね(笑)」

 転機となったのは07年。クラフト関係のアーティストたちの「花市」というイベントに参加した。そのときに出会ったひとたちとのつながりが財産になっていったという。

「いまは『もみじ市』(手紙社主催)といっていますが、はじめて春にやる花市に出店したときに、いろんな人と出会うんですよ。のちに展示会の案内用の写真を撮ってもらったりするキッチンミノルとも、そのとき知り合ったし。『うずら』という名前を知ってもらうきっかけになり、知り合った人たちとはいまでも関係が続いていますね」

──そこから展示会でサンプルを展示して受注するという現在の形式になっていくんですか?

「展示会のもともとの出発点は、わたしが東京にやって来てからずっと通っている美容室があって、お客さんが増えたときのためにお店の半地下にスペースをとってあって、『そこを使っていいよ』と言ってもらい、一日いくらで場所を借りてやったんです。偶然そこの美容室は、タカハシくんも出会う前にそこで髪を切っていた。
 だから、ふたりともそのお店の好き具合が同じで、雰囲気も、うずらとマッチしていたので、美容室のお客さんに『下で展示やっているんで、よかったら見ていってください』というふうなことで、初めてやったにしてはたくさんの人に見てもらえた。それでしばらく、そこで続けていたんです」

f:id:waniwanio:20170904122252j:plain


──どこかのお店に卸すというのではなく、展示会で注文をとるという形式を選ばれたのは?

「卸の販売は考えてなかったんですね。わたしはそれまで量産の中にいたから。量産すると在庫が、もうめっちゃ残るんです。年に一回セールといって、2万円くらいした靴を千円くらいにして売ったりする。そういうのをみていると、なんだろうって。
 タカハシくんはオーダーメイドの職人だったけど、会社のときは直接は足を見ないで、接客したひとが書いた書類を見て『これで合うのかなぁ』と思いながら作っていた。だから二人とも、お客さんと対面して、話を聞いて、作るということをやりたいと思ったんですよ。そのほうがシンプルだし。
 たとえば、美容室に行きますよね。『どんな髪型にしますか』と話して髪を切ってもらう。『ありがとうございました』と言ってお金を払う。なんで間に加える必要があるんだろうと。シンプルにやればいいじゃん!!って。
 まだ靴の学校にいたときに、そういう話をしたら『甘い!!』と友達に言われたんですけどね。そうか甘いのか…というのもあって就職したんですよ。でも、タカハシくんと『うずら』をやっていくとなったときに、これからはもう誰のものかわからない靴は作りたくないというのがあって、現在の対面形式にすることにしたんです。
 だから、始めるときから、どこかの店に置いてもらうというのは発想としてないままにきたんです」

f:id:waniwanio:20170904132818j:plain


──「うずら」は、いまのようにオリジナルの靴づくりをする前から名乗っていたんですね?

「ふたりでやっていこうとなったときに『名前がいるね?』となり、タカハシくんが『じつはもう決めてあるんです』と言うんです。勤めていた会社の職人さんがうずらを飼っていたんですよね。石神井公園にエサの川蝦を一緒に釣りにいったりして、あげるとピッピッピッと喜ぶのが可愛かったんですって。
 あとは、タカハシくんが好きな鬼子母神のあるあたりが昔は鶉山と呼ばれていたとか。外国のひとが聴いたときの『う・ず・ら』という響きが面白いらしいとか。熱心に話すのを聞いていて、わたしはとくに案もなかったので、『じゃあ、それでいいです』って(笑)。
 04年には事業所としての届けを出し、取り仕事も『うずら』という名前で請けていましたね」

 個展形式の展示会でオリジナルの靴をならべ、受注をとる「うずら」の販売の仕方が面白かったので、名前に由来までつい詳しく聞いてしまっていた。
 最後に、おさむさんにしたのと同じ質問をしてみました。

──記憶にある古い光景を教えてください。

「ああ、同じ質問がくるんですね。(隣の部屋で仕事をしながら)聞いていて、えー、ぜんぶわかんないと思っていたんです。
 小さいときを思い出そうとすると、弟がいるんですよ。そうすると、わたしは三歳になっている。なんか、弟がまだ小さくて、夕方に留守番をすることになって、親がぜんぜん帰ってこなくて、泣き叫んでいる。『うわぁ、どうしょう?!』って。どんどん暗くなってくるのにと不安になっていく。そういうのですね」

f:id:waniwanio:20170904123151j:plain


──二問めは、いま二番目に大事なものとかコトは?

「トモダチだと思います。え、ナンニン? 何人、ですか……(しばらく手の指をおりながら)ずっとこれからもトモダチでいてもらえそうなひとは、10人くらいはいますね。続いてきているし。半分は釧路のトモダチで。みんな自営だったりして頻繁に連絡をとるわけではないんだけど、なんかあれば助けてもらっています。この(おさむさんがドリップで入れた)コーヒーも、札幌で石田珈琲というお店をやっている。いつも送ってきてくれるんですけど、そのタイミング、これがすごいんですよ。なんでわかるんだろう。そろそろなくなりそうだなと思うと、送ってくれる(笑)」

──絶妙すぎますね(笑)。これが最後ですが、最近ちょっとうれしかったことは?

「きのう、トモダチのイベントで飲んでいたら、すごい笑顔で寄ってこられて『いやぁ、肌ムチムチですよね』と言われた。『いいですね、肌きれいだから』って。もう来週になったら忘れていると思うんですけどね、ふだん言われなれないせいか、ほめてもらえたのがちょっと嬉しかった(笑)。
 これまで取材でふたりで話すというのは何回かあったんですけど。タカハシくんがひとりでしゃべっているのを聞くのは、新鮮でしたね。寡黙に見えて、じつはしゃべる人なんですよね」

「かもしれない」ボソボソと後ろの部屋から、おさむさんの声がした。「いつもボクがしゃべろうとして、話そうとしたら、もう話題が次にいっていることが多くて。それでしゃべらない人になってしまう」「そうなんですよ、あははは」とひろみさんが応じた。
 余談だか、インタビューの仕事をしていてワタシは、こちらがコーヒーカップを手にするのと相手が手にする瞬間が重なると「うまくいっているみたいだな」と安堵する。このインタビューの最初の回に、うずらの二人が並んで取材を受けているときの写真を掲載しています。お茶のカップを手にするタイミングが自然と同じで、いいコンビなんだと思った。

f:id:waniwanio:20170904131231j:plain

 

 ここからは後日談。取材の翌日、おさむさんがお世話になった会社の社長さんがなくなられたという報せを受け、ふたりでお通夜に向かったそうだ。その場には、ひろみさんが勤務した会社の二代目社長さんも居合わせ「お、どこかで見たような顔だな」と声をかけてもらったという。
 社長さんにふたりで始めた「うずら」のことを伝え、「当時はことばにしないままだった感謝の気持ちも伝えることができてよかった」とひろみさん。社長さんは、話題が会社のことになると相変わらずモゴモゴ。それでも再会してみて「あれは悪口というわけでもなかったんだなろうな。愛情があってのことだったんだ…」と受け止められるようになったという。お通夜の席だけにシンミリしながらも、「ただトシをとっただけってことかもしれませんが」と電話口で、ふふふと笑い声をあげるひろみさんだった。

おわり

最初から読む☞ココ

ご案内【これまでウラカタ伝に登場してもらった、ちょっとすごいフツーな人たち】
ひとが決断するときは、ちょっと無鉄砲になる。
たとえば大学を卒業し「これしかない!!」と内定していた会社に就職せず、ひとり香港にいった大内さん。いまはEXILE主演映画のアクション監督として高い評価を受けているひとだが、当時空港に到着し広東語はおろか英語すらしゃべられないことに気づき、両替所の前で一時間呆然、バスの乗り方もわからず途方にくれたといたという独白は、「うずら」の高橋おさむさんがカヌーの野田知佑さんに憬れ、とうとつにカナダに行くのと似ているし、ひろみさんが靴職人になりたくて上野をテクテクと歩き回っていた光景にかさなります。
それぞれジャンルは異なるけれど、アサヤマのなかではつながっている人たちのインタビュールポ。

アクション監督が語る、「スタントマン」になるには☞大内貴仁さん

噂の「りんご飴マン」さんに会いに弘前へ☞りんご飴マンさん

島根で「福島」について考える「日直」歌手☞浜田真理子さん

スンタトマン」の世界を漫画にする☞黒丸さん

「自分史」づくりが面白いという☞中村智志さん

情熱大陸」偏愛漫画が話題の☞宮川サトシさん

「困ったら、コマムラ」の便利屋☞駒村佳和さん

見入ってしまうメオト写真を撮る☞キッチンミノルさん

タイで起業した写真家☞奥野安彦さん