「ウラカタ伝」

ふだん表に出ないけど、面白そうなことをしているひとを呼びとめ、話を聞きました。

ドキュメンタリー監督が現地に通う中で変わったこと

【わにわにinterviewウラカタ伝⑪】番外編

三里塚のイカロス』の代島監督が、
実家の稲刈りをするというので見にいきました

 

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インタビュー・文=朝山実
写真撮影 © 山本倫子Yamamoto Noriko

代島さんの連載の最初から読む☞ココ

 

 

「映画を撮ることで、ぼくの何かが変わったといえばこれでしょうね」

 三里塚闘争の「その後」のドキュメンタリー映画を撮ってきた代島治彦さんが「実家の稲刈りをする」というので、埼玉県熊谷市の田んぼを訪ねてみた。

 埼玉県熊谷市。新幹線の停車駅でもある「熊谷」からバスで最寄りの停留所まで10駅。街に出るまでの距離感といい、空き地の点在の仕方といい、私の郷里とよく似ているなぁと思った。
 なんとはなしにそう口にすると、「地方はどこもそうですよ」とカメラマンの山本さんから突っ込まれた。感傷におちいりかけていたが、まあ、そうだわな(笑)。
 それでも代島家の門の前に立つと、懐かしさは増した。時代劇ふうな「ザ・旧家」のおおきく黒い長屋門をくぐり、庭木を左手に見ながら、玄関へ。横長の広い土間があり、ひんやりとした空気に包まれる。そうそう。昔の農家は冷房要らずの造りになっていたんだよなぁ。

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 土間の中央に立つと、掛け軸のかかった奥の座敷までが見渡せる。はじめて訪れる家だが何度か訪れたことのある気になったのは、間取りや気配に既視感がまざったからだろう。

「子供のころは、家に本がなくて。中学生のときに友達の家に行くと文学全集があって、コンプレックスに感じた。じつは映画も、オクテだったんですよ」

 代島さんが「スコブル工房」という小さな会社をはじめたのは、大学卒業後に入社した博報堂を2年で退職した後のこと。プロデューサーなどを務めたのち、1994年から2003年まではミニシアター「BOX東中野」(現・ポレポレ東中野)を経営していた。代島さんには『ミニシアター巡礼』(大月書店)という著書がある。シネコンの波に押される中で劇場を守ろうとする全国各地の映画館主たちをロングインタビューし、志し半ばにして劇場経営から撤退せざるをえなかった経緯なども記された、読みごたえのある本だ。

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「中学時代、放送部にいて、仲のよかった友達ふたりと昼休みにラジオドラマのようなことをやったことがあったんです。西部劇の『シェーン』の真似だったんだけど、台本を書き起こし、拳銃の音やムチなどの効果音を録音して流していた。給食時間の10分くらいの連続ものなんだけど、けっこう評判もよくて。三人でやり遂げたという達成感があったんですよね」

 少人数のチーム編成は、三里塚のドキュメンタリーを撮る際にも通じるものだ。カメラマンと二人体制でインタビューから録音、編集作業にいたるまでを代島さんが行ってきた。
 
 子供のころに家に本がなかったというのは私の家と似ていた。
 縁側の椅子の脇に、文庫本が一冊。拾い上げると、夏目漱石の『こころ』だった。

 

「ああ、それは入院していたときに母が病院で新聞の広告を見て、読みたいと言うから買って持っていったんですよ。ふだん本なんか読まないんだけど、何を思ったのか読みたいという。もう一冊は浅田次郎の『鉄道員(ぽっぽや)』だったかな。どこに惹かれたのかわからないけど。あまり小説を読まないひとがいきなり、『こころ』なんてねぇ」

 そういえば、彼がプロデューサーとしてかかわった『オロ』(岩佐寿弥監督、2012年製作)の自主上映会が、映画好きの魚屋さんが営む食堂であるというので、藤沢まで出かけていったときのことだ。チベットからインドへ命がけで亡命した少年のドキュメンタリーだったが、その編集も代島さんが手がけていた。

三里塚に生きる』『三里塚のイカロス』と共通しているのは、主人公の少年オロを中心に、まわりの人たちのインタビューと風景をつなげ、ひとびとの営みから「遠い世界」の暮らしを見せていくことだ。エンドロールを見ていると、支援者の名前群に「代島」姓のふたりの名前が見えた。

「そう。両親です。カンパしてくれたんですよね。世界がちがうから、僕が何をやっているのか理解できていないと思うんだけど、関心はもってくれている。長男なのに勝手に家を出て行ったドラ息子なのにね」

 そう言って、すこしはにかんだ。そんなこともあり、物見遊山がてら、代島さんが父親とやっている農業の現場を見てみたいと思ったのだった。

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「え、本当に来るの? 何も変わったところのない、住宅地の中に取り残された小さな田んぼだよ」

 特別な栽培方法をやっているとかいうのでもないし、本当にタダの農家と念を押され、呆れられ、笑われた。

 1958年生まれの代島さんとは年齢的にも近く、実家の造りもそうだが、見てきた風景に共通項が多い。10代の頃に、岡林信康加川良のプロテストソングに共感したのもそうだ。代島さんは、後に高田渡のドキュメンタリー『まるでいつもの夜みたい 高田渡東京ラストライブ』をつくるのだけど。
 ちがうのは、人生の折り返し地点を過ぎ、代島さんは実家の田んぼ仕事にかかわりだしたことだ。

 田んぼといえば、取材で訪ねた、映画監督の井筒和幸さんの実家のある奈良県の田園地帯をときおり思い浮かべることがある。ルポを書くためにほぼ一日かけて散策し、左右に田んぼが連なる、小高い線路の踏み切りの中に立ち、「ここを出るんだ。映画を撮りたいんだ」と鉄路の先を見つめていた少年時代の井筒さんと自分を重ねてみていた。彼が『パッチギ!』を撮ろうとしていた頃だ。自分がこの町にいたら彼と言葉をかわす関係者になれていただろうか。共通項と自分にはないものを探し歩いたものだった。

 場所と記憶ということでいうと、代島さんが『三里塚のイカロス』で、かつて「支援」として闘争に加わった若者たちのインタビューを行うにあたり、わざわざ彼らを遠ざかっていた三里塚の地に誘い、その地の風景の中で話を聞く。「わざわざ」は手法であるばかりか、作品への身構え方でもあるだろう。

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「わかりにくかったかなぁ? さっきタクシーが通っていったから、たぶんあれかなと思っていたんだけど」

 駅からバスも出ているものの、フンパツしてタクシーに乗ったもののカーナビのついていないクルマだったもので、何となくこの辺りという所で降り、ふらふらしているとコンバインの上から手をあげている麦わら帽が見えた。

 開発が進むとともに田んぼは減少し、いまでは近隣でも数えるほどだという。「水量が少なくて」と父親の久輝さんがいうように、田んぼの脇を細々と流れる水路の水量はわずかだったが、それでも田んぼに踏み入れると小さな青蛙や蟋蟀の類がぴょんぴょんと飛び跳ねていく。
 代島さんが実家の農作業を担わざるをえなくなったのは、主たる担い手だった母親が病気でたおれ、80代の半ばをこした父親ひとりにまかせておけなくなったからだ。
 
「どれだけ続けていけるのか、わからないけど」
 
と言いつつも、はじめてみるとやりがいがあるらしい。家の前に広がる畑には、久輝さんが世話をする大根、白菜、茄子、青ネギが。その並びには代島さんが大事に育てるブルーベリーの樹木が茂り、夏の収穫期には農協の販売所に持ち込んでいるという。

 

「金額にしたら、そんなにならないけどね」

「これは、ハルヒコが始めたんだけど」と久輝さんが指差す先には、まだ膝丈ほどの挿し木されたブルーベリーの苗が植わっていた。大きな苗に育つのを待って植え替えるらしい。息子が不在の間は、昭和6年生まれの久輝さんが、苗木の面倒をみている。「ハルヒコが植えたんだよ」という声が弾んで聞こえた。

 

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「ぼくも、実家は農業をやっていたんですよ。埼玉の熊谷で。長男だけど、大学進学で家を出て、もう30数年放っておいたままだったんだけど」

 
 最初に東京の自宅を訪ねた際、実家の話がでたのは『三里塚のイカロス』についての話を聞き終えたころだった。
 聞き手である私の実家が農家だったにもかかわらず、ろくに手伝いなどしたこともない。にもかかわらず三里塚の農家の援農をしていたという私の側の昔話を受け、代島さん自身の実家の近況を語りだしたのだった。

三里塚のイカロス』に出てくる、農民活動家の加瀬勉さんが闘争の歴史を語り終えたあと、自身の老々介護の現況をふいに語りはじめたのとすこし似ているかもしれない。インタビューではよくあることだが、録音機を止めようとしたところから印象深い話に出会うものだ。

 

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「いまも80代の両親が農業をやっているんですよ。前作の『三里塚に生きる』でカメラマンの大津(幸四郎)さんに誘われて三里塚に行くようになったのが、彼ら(両親)が80になろうとするときで、三里塚に行って『生きる』に出てくる、小泉(英政)さんや柳川(秀夫)さんの農業を見て、農業もいいなと思ったんですよね」

 若い頃の代島さんは、農業に対して、夢のないイメージしかもちえなかったという。爆音下の成田空港のすぐ側の土地でいまも農業をつづけるひとたちの農業と、代島さんの記憶の底にある農業とでは何がどうちがって見えたのか?

「嫌々やっていないということかな。あのひとたちは、好きでやっているんですよね。育てる喜び、収穫する喜び、土とまじわる喜びが伝わってくる。『あ、芽がでてきたな』とワクワクする。そういうのが。
 ぼくの父親も、時代の例にもれず、農業では食っていけないというので昭和30年代にサラリーマンになった。その父親は60で定年退職し、別の会社に勤めなおし、65から農業をやりなおした。70代は母親とふたりで農業をやり、ぼくは田植えと稲刈りのときに手伝いに帰るくらいだった。だけど、80にもなるとそろそろ辛そうで……」

 

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 どうやら、映画が人生を変える、ということがあるらしい。代島さんは、三里塚に通ううちに、自分が農業を忌避した理由を考えはじめたのだという。

「農業では食べられないからと父親はサラリーマンになり、母親は『農業なんて嫌だ』だと言いながら農業をやっていた。ずっと、嫌だ、嫌だって。

 要するに彼女は『農業はやらなくともいい』という約束で嫁に来たのに、ダマされたって。その母親が農業の担い手にされちゃったわけですよ。
 しかも、うちは蚕もやっていたから。ひと頃は、養蚕を年に6回やっていた。牛や鶏もいたし。生き物だから世話がたいへんで、しょっちゅう母親のボヤキを聞いていた。『嫌だ、嫌だ』というのを耳にしていて、農業をやりたいなんて思うわけはないよね(笑)。
 いまでもよく覚えているのは、小学校の授業で、『家の職業は何ですか?』という質問があって、ぼくは『会社員』というほうにだけ手をあげていたんですよ」


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「会社員」は父親の職業だからウソではないが、「農業」に手を挙げずにいたことを後ろめたく思う気持ちがあった。
 私にも同様の体験がある。親の職業を訊ねるというのは学校教育の決まりごとだったのだろうか。私も農家のほうに手を挙げなかったような覚えがある。理由は、かっこ悪い。女や年寄りがするもの。下水道の整備されていないボットン便所の時代で、柄杓で糞尿をすくい肥担桶で運ぶ。遠くからでも臭う野良衣の母を恥ずかしく思っていたこともあった。

「『三里塚に生きる』のとき、話を聞いていくと、もしもあの空港反対運動がなかったなら、自分は農業なんかしていなかったという息子がいっぱいいた。巻き込まれてしまったから、いまも農業を続けているんだ、と。そういう時代だったんですよね。
 高度成長期で、一度大学で都会に出たら、いろんなものに染まって、ふるさとを捨ててしまう。ぼくもその一人だったんだけど、いまは住宅が立ち並び、農地はウチの近所しか残っていない。

 ここは市街化調整区域といって、農業区域でもなくなって。そういうところで両親は田んぼとすこしの畑をやってきた。三里塚に行きはじめて一年ぐらいしたころからかなぁ、親と農業をやったという記憶を残したい。そう思うようになったんです。とくに、親父とね。

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 それでブルーベリーの苗を30本植えて、去年から収穫できるようになったんですけど。そういう農業をしはじめたということが『三里塚を生きる』と『三里塚のイカロス』。二本の映画の間にはありました。
  
そうこうしていたら、ウチの母親が今年5月に脳梗塞で倒れて入院したり、父親も軽い認知症の疑いがあると診断されて。今年は田植えのときから本当にたいへんで。田植えのほうは、弟家族に手伝ってもらって、ぼくがはじめて田植え機を運転しました。夏はブルーベリーの収穫と、映画の宣伝をやりながらも両親の介護でも忙しくて」

 

 この日は代島さんにとって初めてのコンバイン操作らしく、父親が監督のポジション。「ここは、もうちょっと低く刈り取ったほうがいいんだけど、ハルヒコは初めてだから」と10㌢ほど稲の刈り取りあとを指差す。
 久輝さんは30代の頃、台湾に大手自動車が工場を建設する際、責任者として単身赴任したことがあるという。

「治彦さんは何歳ぐらいでしたか?」「……覚えてない。それどころじゃなかったから」と笑顔で返され、私の親父とそっくりだなと思わず笑ってしまった。「仕事で頭がいっぱいだったから。男親なんてねぇ」と久輝さん。

 

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 その後も上部団体の労組の役員を務めるなど働き盛りは多忙で、代島さんには少年時代、父親と密に会話した記憶はごくわずか。親密に会話するようになったのは、父親が80代になり一緒にブルーベリーを育てるようになってからのこと。今年5月に母親が入院し、家事などしたことのない父親のため実家に滞在するようになった。


「母親が元気なときは、たまにぼくが家に帰ってもすぐに母親がテレビをつけたりするから、父親とは会話ができなかった。でも、いまは時間だけはありあまるほどあるから、おかげで昔の同じ話をもう何十回と聞かされていますよ(笑)」

 門の脇の、納屋に入る。農機具などが置いてあり、几帳面に鎌や鍬が配置されていた。棚の上段に置かれた段ボールの箱には、なかに何が入っているのかをメモした紙が貼り付けてあり、久輝さんの几帳面な性格がうかがえた。
 主戦力だった母親を欠いた今年の稲作は、不慣れな息子と父親とで取り組んできた。

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「今年は畦の草刈りとかも、親父とふたりでやってきました。自分で植えたものが穂を垂れるのを見るのは、格別に嬉しいもんですよね。
 ブルーベリーもそう。夏の収穫期は毎朝5時に起きて、実を摘むと300gごとパックに詰めて出荷する。近所の市場で、その日の収穫分ぜんぶ売れると1万5千円から2万円ぐらい。金額にしたらたいしたものでもないけど、それでも嬉しいよね。これから先のことはわからないけど、いまはそういうことが大事だなと思っている。

 そうそう、昔は、田んぼはぜんぶ手植えで、水の張ったところをぼくは泳いでいた。二歳か、三歳のとき。田んぼに連れていかれていた記憶がある。かすかに。写真に残っているのは、勝手に動くとあぶないから、と田んぼの端の大きな木に結わいつけられているの(笑)」

 小学生の頃に、代島家の裏手に国道のパイパス道路ができ、すぐ前には柏崎刈羽原子力発電所から首都圏へ電力を送る送電線の大きな鉄塔が建ち、昔からの風景は様変わりした。

 当時はそうした都市化を肯定的に受け入れていたが、近年は「ここだけは守りたい」とつよく思うようになったのだという。稲の実った代島家の田んぼの隣には、所有者が農業をやめてしまった休耕田があった。

 

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 最後に訊ねてみた。三里塚の映画を撮ることがなかったら、田んぼのことはどう考えていたか。

「農業じたいは、親の手伝いで少しはやっていたかもしれない。だけど、いまは耕作放棄したほうが楽なんですよね。だから、親ができなくなった時点でそうしていたかも。おそらく田んぼとしてではなく、『不動産』として見るようになっていたかもしれない」

 

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👆お昼ご飯。 収穫したキヌヒカリで、代島さんがぎゅっと握ったオニギリ.美味かった

【附記】

三里塚のイカロス』には、「支援」から農家のお嫁さんになった元女学生が三人登場する。そのなかのひとりの女性が渋谷の映画館のトークイベントに出席され、代島さんと対話されていた。

 その日彼女は一番前の席に座り、試写と合わせて三度観たと言う。空港反対運動の渦中にいた時には、実はまわりで起きていたことがよくわかっておらず、映画を通してようやく理解できたことが多かったという。しっかりとした、おだやかな口調が印象に残った。距離によってその時見えていなかったものが見えてくる。ドキュメンタリーのひとつの意味はそこにあるのだろう。

 映画館で再見したとき、私は自身がある場面を間違って記憶したことにきづかされた。高校生だった彼はニュースを見ていてもたってもいられず、三里塚に駆けつけ、トンネルを掘っている最中の落盤で車椅子生活となった。陽気な話しぶりに車椅子の印象が薄かったのか、だいぶ時間が経過してからカメラが車椅子を映していたように印象づけられ、この連載記事の以前の回にもそのようなことを書いた。しかし、再見すると彼が最初に登場するところからその全身と付き添う仲間の姿が見えていた。まあ、とかく記憶はあてにならないものだし、印象は更新されていくものだ。

 話は跳ぶが、革共同中核派三里塚現地の責任者だった岸さんの、映画には使われなかったインタビュー映像を見る機会があった。彼が革命運動に身を投じた動機に納得するとともに、50代後半に人生の大半を注いだ組織を離れる決断をしたことで得たものを語っていた。時折見せる笑顔がとてもよかった。組織人としての過ちはあったにせよ、過去を振り返る姿勢には真摯な人柄がうかがえた。

 映像のつよみは、表情から「個人」を見せてしまうところだ。考え方のちがいから三里塚に赴任するのを辞退したにもかかわらず、断り切れず農村で暮らした。人事は革命組織も会社みたいなものなのか。その岸さんは、映画の公開前に今年雪山で遭難。遺体は発見されていないという。代島さんは、試写会場で配布した冊子に岸さんに関する追悼文を寄せている。インタビューの申込みから映画の完成を伝えるまでのやりとりとともに「まだまだ伺いたいことがたくさんありました」と言葉を記していた。映画は成田空港を見つめる岸さんの背中のショットで終わっているが、岸さんにとどまらず、まだまだ話を聞きたくなる映画であることは確かだ。

 

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おわり

 

映画公式サイト👇

横浜シネマリンにて上映中☞ココ

 

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